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  • from: 庵主さん

    2010年03月04日 22時10分13秒

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    風さそう花よりも猶我はまた<辞世の句>

    人は人生の終焉を迎えるにあたって、一体何を感じ、思うのか。古来より日本人は特に「辞世の句」に注目し、重んじてきました。今回は、誰でも知っている超有名なものから(タイトルの句はわかりますよね)、無名の一般人の心を打つ句まで、当庵独自のくせのあるセレクトでご紹介してみたいと思います。まだ何十年先かもしれないし、今週末かもしれない…。その時がやってきたとき、自分は何を思うのか、またどうあるべきか。末期の予行演習をしておくためにも、心にブックマークしておきたい名句を集めてみました。



    ★芸術・芸道★

    ●山崎宗鑑(一五五三没 享年八十九)
    辞世の句
    「宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありてあの世へといえ」

    俳諧の創始者。はじめ足利義尚に仕えるが、その死に出合い、世の無常を感じ剃髪して尼崎に隠棲する。ついで一休禅師に従う。和歌・連歌を習うが、風狂の人として俳諧の普及につくす。

    「切りたくもありきりたくもなし」
    という句の附句三句を望まれ、

    「盗人をとらえて見れば我が子なり」
    「さやかなる月かくせる花の枝」
    「心よき的矢の少し長いをば」
    と答える。


    ●千利休(一五九一没 享年六十九)
    辞世の偈
    「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の一つ太刀 今この時ぞ天に抛」

    茶道の完成者。千家流茶道の開祖。16歳のとき京都で茶会を開き、茶の湯の世界に登場。天正13年(1585)秀吉の関白就任にあたり、禁中小御所で茶会が開かれたとき、天皇に茶を献じて利休居士の号を贈られる。天正18年、秀吉の怒りを受け、翌年2月28日切腹。


    ●松尾芭蕉(一六九四没 享年五十)
    辞世の句
    「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」

    俳人。伊賀の生まれ。京都に行き北村季吟に入門して俳諧、和歌を学ぶ。天和5年、江戸深川に居を定め、剃髪して俳諧の研究に努める。諸国を遍遊して、元禄7年10月大坂の旅宿にて没する。有名な「奥の細道」は元禄2年の作である。


    ●安藤広重(一八五八没 享年六十一)
    辞世の句
    「東路に筆を残して旅の空 西のみくにの名所を見む」

    江戸末期の浮世絵師。風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開
    いた。作は「東海道五十三次」「江戸名所百景」など。


    ★庶民★

    ●商人の娘(年代不明 享年二十八)
    辞世の句、三句
    (題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ いづれの水に身をや清めん」
    (題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
    (題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」

    「黒甜瑣語」にのっていた話。丹波の国の商人の娘、28歳で死亡したが、上の
    辞世の句三首を残していた。


    ●乞食女(一六七二没 享年不明)
    辞世の句
    「ながらえばありつる程の浮世ぞと 思えば残る言の葉もなし」

    寛文12年4月、京都三条橋の下で20歳あまりの乞食女の遺体が発見された。自害とみられ、かたわらには上の辞世の句が残されていた。
    これが都で評判となり、ある貴族もこれに対して歌を詠む。

    「言の葉は長し短し身のほどを 思えば濡るる袖の白妙」(新著聞集)

    彼女の意図に反し、三百年以上も「言の葉」は残り、今も聞くものの心を打つ。



    ★僧★

    ●一休(一四八一没 享年八十八)
    遺偈
    「須弥南畔 誰か我禅に会う。虚堂来る也。半銭に値せず」
    (意訳:この世界、誰が我を理解できよう。虚堂が来て禅を示そうと、半銭にも値しない)

    室町時代の禅僧。30歳頃から風狂さが発揮される。文明13年、持病の瘧(熱病)が悪化し、11月酬恩庵にて死亡。その最後の10年間、盲目の森侍者と夫婦として過ごしたという。


    ●関山国師(一三六〇没)
    遺偈
    「断じて仏祖を截る 吹毛常に磨す 機輪転ずる処…」

    関山国師(無相大師)は片足が短く、座禅は半跏座であった。死に臨んで斧を取り、自分の足を切り折って結跏座を組み、上の辞世の句を詠んだ。しかし、「機輪転ずる処…」と書いたところで息が止まり、筆を投げ捨て歯を食いしばって果てた。側にいた鉄堂和尚がただちに末句を詠みつぐ。

    「…虚空牙を噛む」


    ★武将★

    ●柴田勝家(一五八三没 享年六十一)
    辞世の句
    「夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ山郭公」

    武将。織田信長家臣。本能寺の変以後、織田氏の後継者問題で秀吉と対立。天正11年4月、近江賎ケ岳で敗れ、居城の北ノ荘城で、敵軍包囲の中を最後の酒宴を催し、翌日夫人(お市の方)と共に天守閣に登り、火を放って自刃する。夫婦の辞世の句である。
    お市の方がまず、

    「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそう郭公かな」

    と辞世の句を詠む。これに応えて勝家は、上の句をつけた。
    お市の方、享年三十七。


    ●豊臣秀吉(一五九八没 享年六十三)
    辞世の句
    「露と落ち露と消えにし我身かな 難波の事も夢のまた夢」

    武将。父は織田家足軽。信長に仕え、天正1年(1573)近江長浜城主となる。本能寺の変の後、光秀を討ち、天正18年に天下統一を成し遂げる。文禄・慶長の役(1592〜98)を起こし朝鮮に出兵。慶長3年8月、「虚損の症」(ガン)で伏見城にて死亡。上の辞世の句は、天正15年、秀吉51歳の時のもの。


    ●徳川家康(一六一六没 享年七十五)
    辞世の句
    「嬉しやと二度さめて一眠り うき世の夢は暁の空」

    徳川初代将軍。今川義元・織田信長と結び武田氏は滅ぼす。ついで豊臣秀吉と和し、天正18年(1590)関八州に封ぜられて江戸城に入る。秀吉の没後伏見城で執政、慶長5年(1600)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。元和2年1月腹痛をおぼえ、容体が悪化して4月17日死亡。棺は久能山に納められる。


    ●浅野内匠守(長矩) (一七〇一没 享年三十五)
    辞世の句
    「風さそう花よりも猶我はまた 春の名残りをいかにとかせん」

    播州赤穂藩5万3千石の藩主。元禄14年3月11日、勅使饗応を幕府より仰せ付けられ、吉良上野介(義央)に教示を求めるも、拒否・侮蔑され、3月14日午前 10時、吉良(当時60歳)を江戸城本丸松の廊下で切りつける。これにより奥 州一関城主田村邸にお預けとなり、同日午後6時、出合の間の庭にて切腹。長矩の遺体には蒲団がかけられ、泉岳寺に葬送された。


    ●大石内蔵助(良雄) (一七〇三没 享年四十四)
    辞世の句
    「あら楽し思いは晴るる身は捨る 浮世の外にかかる雲なし」

    浅野長矩の家老。赤穂浪士の頭領。通称、内蔵助。兵学を山鹿素行に学ぶ。元禄14年(1701)3月、主君長矩が吉良義央刃傷のため切腹。翌年12月、同志と 共に夜吉良邸に討ち入り、本懐を遂げる。明くる年の2月4日切腹。

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