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from: 改革フォーラムさん

2009年11月15日 23時22分29秒

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『慧妙402号』-私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)

『慧妙402号』-私が見た創価学会(理境坊信徒・原島昭)001今般、宗内雑誌『慧妙』に、極めて興味深い記事が掲載された。創賊の原島元教学部長の兄である

『慧妙402号』-私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)  001

今般、宗内雑誌『慧妙』に、極めて興味深い記事が掲載された。創賊の原島元教学部長の兄である昭氏が実地に見聞した戸田・池田にわたる二代の創賊史を語り始めたのである。ハッキリ云うが〝山崎正友氏〝の手記などは伝聞に基づくものが多く、史料としての価値は低かった。

しかし、今回の原島昭氏の発表はまさに「歴史」の実見者が語る史実であり極めて高い史料である。特に第二回目は戸田城聖の実相が語られており興味深いものである。

現在、宗内では戸田城聖の発言を切り文にして現在の創賊と対比させることによって創賊の矛盾を論ずる傾向があるが、史料を精査すると、現在の創賊の根本に戸田城聖が在ったのである。已下、


 [その一]

 [原島家と池田大作の邂逅-若き日に垣間見た池田大作の本性]

 理境坊信徒・原島昭 (元・東洋哲学研究所 研究員※註)

 【註】東洋哲学研究所は創賊教学部のシンクタンクで原島嵩氏も在籍していた。


 一、池田大作と原島家の因縁

 東京大田区・多摩川下流の六郷川のほとりに矢口渡(やぐちのわたし)があり、私は、幼少の頃、両親と共にこの町に住んでおりました。

 昭和十三年、私の二つ違いの弟・崇が生まれ、私が三歳、弟が一歳を過ぎた頃、母が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室註:理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。

 入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。

 さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」とててました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。

 私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和十五、六年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏、小泉氏の紹介で辻武寿氏らが次々と入信しました。

 さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和二十二年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした。

 このように、池田氏と我が原島家とは、浅からぬ因縁があったのです。しかし、池田氏との因縁が深い、と感ずる父の思い入れこそが、後々まで池田氏の実態を見破れなかった大きな原因であった、と私は思います。



 ニ、池田の怨念を買った白木氏

創価学会は、昭和三十年に、公明政治連盟を結成して政界に進出しました。私の父は、二十余年勤務した小学校の教員を辞めて、大田区議会議員に立候補、めでたく当選しました。しかし、それから一年も経つか経たぬかのうちに、今度は参議院に立候補することになったのです。

父のほかには、相原ヤスさん、白木義一郎氏(※「かね」さんのいとこ)ら、学会首脳数人が同時に立候補していました。

 その選挙の翌日、私は自宅でラジオの開票速報に耳を傾けていました。父や柏原ヤスさんの票が伸び悩み、落選が確実になった頃、大阪地方区から出馬していた白木義一郎氏の当確が報じられました。

 白木氏の選挙参謀はあの池田氏で、私は、日頃から父母が池田氏を高く評価していたことと思い合わせ、「さすがだ」と思いました。

 その翌日だったと記憶していますが、夜、池田氏が、大阪から凱旋(がいせん)して来ました。ちょうどその時、私は母と共に、お祝いを言うために池田宅を訪問していました。

 池田氏は、笑みを浮かべながら訪問客の待ち受ける部屋に入って来ました。私もお祝いを述べると共に、日頃から私の両親が池田氏を「人材中の人材」と褒(ほ)めていることを告げました。池田氏はそれを満足そうな様子で聞いていましたが、突然、表情が一変して険しくなり、腹の虫が治まらないという感じで、次のようなことを言ったのです。

 それは---大阪で、当選が決まって報道陣が白木氏のもとに集まり、いざ記念写真を撮る段になったところで、白木氏から「池田君、君はもういいから、奥の部屋へ行って待機していてくれ」と命じられ、自分は止むを得ずその場を退(しりぞ)かざるをえなかった、ということでした。(ちなみに、当時の新聞の写真に白木氏を中心に当選の万歳をしている人々の中に、池田氏は写っていないと思いますが、こういうわけがあったのです。)

 池田氏にとって、自分がないがしろにされたことは大変な屈辱(くつじょく)だったようで、遠く大阪にいる白木氏に向けられているであろう、その両眼は、怒りに燃えているでした。

その池田氏の姿に、はいささか興醍(きりざ)めじた気分で、池田家を出ました。そして、折に触れては、池田氏の怨念を買ってしまった白木義一郎氏の将来に思いをいたすようになりました。

その白木氏は、選挙に出る数年前までプロ野球の花形スターでした。昭和二十五年九月には、次のような報道がなされています。

 「九月二日、後楽園球場で東急フライヤーズの大下弘と白木儀一郎の両選手に、野球連盟ならびに球団から記念トロフィーと記念品が贈られた。大下が百本塁打、白木は七十四イニング三分の二無四球の世界記録を達成したため」(『昭和二万日の全記録』講談社)と。

 白木氏は、それはそれほど世間的にも著名な人でしたから、選挙の勝因も自らの名声にあるのであって、池田氏の力によるものではない、との自負の念があったのではないでしょうか。

 しかし、池田大作夫人の身内である白木氏が、政治家としてさしたる功績も残せないまま、いつの間にか表舞台から消え去っていったことを思う時、かつての夜の池田氏のすさまじい怒りが私の脳裏に浮かんでくるのです。


 三、父・原島宏治の遺言

昭和三十九年の初夏のある朝、私が、勤行するために自宅の二階に上がって見ると、父がひとり何か考えごとをしていました。そして、私の顔を見ると、父はゆっくりとした口調で、

「池田会長から『近い将来、原島理事長は学会を離れ、創価大学の理事長として活躍されたらどうか』と言われた。おまえはどう思うか。』と言いました。

その時の父の様子から″突然、思い掛けないこと、理解しがたいことを言われた″という戸惑(とまど)いがうかがわれました。しかし私は、″ついに来るべき時が来た。池田会長は、理事長として学会の中枢にいる父の存在が邪魔になったのだ〝と直感しました。ただ父の問いかけには答えようがないので黙っていました。

 ちなみに、私の弟の原島嵩(元・創価学会教学部長)は、後年の著書『池田大作 創価学会の真実』で、池田氏には当初から天下盗りの構想があったとして、

 「①まず、創価学会内にあって青年部を押さえる。②次に会長になり、創価学会の絶対的権力を手中におさめる。③そして次の段階で宗門を支配下に置く。④…」と、天下盗り構想の図式⑧まで述べています。

 昭和三十九年のその時の時点では、②の段階ははぼ完了しており、次の「③宗門を支配下に置く」ことを目指す段階に来ていました。

 そして、②の「創価学会の絶対的権力を手中におさめる」との段階を上がり切るには、最後の障害がありました。それは、創価学会理事長であり、さらに年内に公明党の結成が予定されているなか、その初代委員長に内定している原島宏治の存在です。

 ちなみに、竜年光氏(元・公明党都議)の著書の中に、「原島理事長は池田会長に対して、池田先生、先生と繰り返し呼び、へつらっていた」と記述されていたようですが、それは全くの誤認識です。私自身、父が直接にも間接にも池田氏を 「先生」と呼んだことを聞いたことはありませんし、父の著述の中でも池田氏に「先生」の称号を用いたことは一例もありません。

 父はいつも、池田氏のことを「池田会長」あるいは「池田さん」と呼んでおりました。逆に、会長になる前の池田氏は、時に私の父母に対して「お父さん」 「お母さん」と呼びかけて、母を喜ばせたりしていました。

 同年十一月十七日、公明党が結成され、父が同党の初代委員長に選出されました。そして、それからいくばくもない十二月九日朝、父は心筋梗塞(しんきんこうそく)のために五十五歳で急死しました。

 悲しみの醍(さ)めやらぬある日、弟の嵩が少し不思議そうな表情を浮かべながら、私に次のような話をしました。公明党結成直後のこと、父は、沖縄指導のため空港まで嵩を伴(ともな)って車中にいました。その車中で父は嵩に向って、「私は日蓮正宗の立派な一信者でありたい」と語ったというのです。

 「兄さん、これはどういう意味だろうね」と、弟は怪訝(けげん)な面持ちで私に問いかけました。無理もありません。当時の弟は、池田会長を「生涯の師」として敬愛し、一生忠誠を捧(ささ)げようと決意していたのですから。

 私はまたも本心を隠し、当たり障(さわ)りのないことを言って、その場を取り繕(つくろ)うしかありませんでした。弟が父のこの遺言を本当に理解したのは、池田氏と訣別して、日達正宗へ回帰してからです。

 父の一周忌法要の終了後、池田氏と私のほかに大幹部数人がその場にいるだけの時であったと思います。池田氏は私に、

 「原島理事長は、けっして私の事を先生と呼ばなかった」と話しかけてきました。そして、つぶやくように

 「私は、原島さんに、かつて一度たりとも心を許すことはなかった」と付け加えたのです。

 やはり、これが池田氏の父に対する本心だったのです。私は、原島一族の前途に、漠然(ばくぜん)とした、しかし言い知れぬ不安を抱きながら、池田氏と別れました。

 (つづく)

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from: 改革フォーラムさん

2009年11月15日 23時26分04秒

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「Re:『慧妙402号』-私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)」
[その二]

 [それは戸田会長時代から始まっていた]

 私が学会に不信を抱(いだ)いた理由(わけ)

 (理境坊信徒・原島昭=元東洋哲学研究所・研究員)

 四、不信感の芽生えと拡大

前回、「父(原島宏治)が私的な場面で池田氏を『先生』と呼んだことを聞いたことはないし、父の著述の中でも池田氏に『先生』の称号を用いたことはない」と述べました。

 より正確に言ったならば、創価学会の幹部会や『聖教新聞』『大白蓮華』といった公の場では、「池田先生」と称することはありましたが、その場合でも必要最小限の使用に止どめていた、ということです。もちろん、池田氏を仏として称賛するような言葉は全くありません。

 そういう父でしたので、とても池田氏のお気に召すはずがなかったのです。 また、前回、家族の中では私だけが初期の段階から池田氏の本性を見抜いていたかのように述べましたが、それは私が優れた洞察力の持ち主だったからではなくて、私が特に疑い深く、池田氏のことも最初から疑いの眼で見ていたからでした。私がこうしたねじけた物の見方をするようになったのは、多分に創価学会二代会長・戸田城聖氏の影響でもあります。

 次にその経緯について述べてみたいと思います。


 [衝撃①戸田氏の金融業]

 戸田氏は、戦前から出版業を営むかたわら、金融業にも手を染めていました。昭和十六、七年頃のこと、まだ幼かった私が夜中にふと目を覚ますと、両親が部屋の隅に寄せたテーブルに向かい合って、何やら作業をしていました。そのテーブルには紙幣がうずたかく積まれており、両親は、それを数えながら束にしていたのです。

 主に十円紙幣だったと思いますが、当時の父の給与は百円に届かず、バナナが一束十銭の時代です。テーブルの上にいくつもの山を作っている紙幣は、今の金額に換算すれば、おそらく数千万円、あるいは一億円を超えていたのではないでしょうか。

 後になって知ったことですが、そのお金は、母の実父・高松甲子男が戸田氏の金融会社に出資する、ということで両親に預けたものだったのです。

 それから六、七年が経って、やはり夜中に目を覚ますと、両親が何やら深刻そうな顔つきで話し合っていました。

 父が「高松のお父さんに連絡は取れたか」と母に尋ねますと、母は「まだ取れていません。父には本当に気の毒なことをしました」と答えていました。

 なんと、昭和十八年に戸田氏が牧口初代会長と共に治安維持法違反で逮捕・投獄されたことによって、その会社は倒産し、祖父の預金も全て貸し倒れになってしまったのです。

 私の母は、どういう事情か、実の父親とは幼い頃に生き別れになっており、長じてからようやく巡り会えて親交をもつようになったようです。私にとって祖父に当たる高松甲子男は、孫の私を大変可愛がってくれました。ところが、戸田氏の金融業のために大損害をこうむった後は、祖父と私達家族との交流は全く途絶えてしまいました。

 そうしたことを見聞きし、私の心には戸田氏に対して、少なからず不信感が芽生えたのです。

なお、戸田氏の金融業に出資して損をした人はかなり大勢いたようです。私の中学時代の校長だった方もその一人だったらしく、昭和五十六年、同窓会で久しぶりにお会いした折、私達教え子に向かって、「昔、戸田氏に多額の出資をして大損した」と声を荒げて語っていました。



 [衝撃② 雑司ヶ谷の夜]

 昭和二十二年の春の夜、当時の私達の住まいであった雑司ケ谷の家に戸田氏が訪ねて来ました。戸田氏はだいぶ酔っているようでしたが、両親は、尊敬している戸田氏の訪問に大喜びでした。

 戸田氏は、弟・嵩と将棋をさしたり、まだ生後二、三ケ月だった下の弟・弘の小さな掌をとって、手相を見たりしていました。嵩と私の手相も見ました。

 そして、母に抱かれている弘を指して、「この子は世界の父になる」と言いました。嵩が「ぽくは?」と尋ねると、「嵩は世界の父の門番になる」と答えました。私より気性の烈しい嵩は怒り、「門番とは、何を言うんですか!」と戸田氏に食ってかかりました。

 私も、「では、ぽくは何になるのでしょうか」と尋ねてみました。

 戸田氏は、じろりと私の顔を眺めましたが、いつまで経っても何も答えてくれません。私は救いを求めるように父母を見詰めました。しかし、父母は黙って微笑んでいるだけでした。「ぽくは門番にもなれないのか」--私は、こう心の中で思い、落ち込みました。

 それから三、四十年が経って、あの夜の戸田氏の「世界の父になる」云々の言葉は、単なる酔客の戯言(たわごと)だった、とわかりました。

 と言いますのも、弟の弘は、平凡ながらも心の優しい、まじめな青年に育っていきました。大学を卒業後、創価学会国際センターの職員となり、そこで十年近く勤めましたが、嵩が学会を去るのと同時に、辞表を提出、宗教とは無関係の、ある図書関係の会に再就職しました。数年前、法華講妙緑寺支部の講員になり、現在に至っています。

 嵩はといえば、あのことを自分の著書書に一度だけ、「戸先生と将棋をさし」と述べていました。「門番」については何も触れていませんが、忘れるわけはないと思います。負けん気の強い嵩のことですから、戸田氏の言葉をむしろ自らの向上に役立てたのだろうと私は推測しています。

 私の場合は戸田氏の無言の意味するものを深く考えすぎて、それが心の傷となり、永い間苦しみました。ただし今の私は、門番もまた立派な職業だと考えておりますが___。



 [衝撃③ポルノ雑誌『ルピー』]

 戸田氏が雑司ヶ谷の我が家に訪れてきた翌年だったと思います。戸田氏は少年向け雑誌冒険少年』、次いで成人向け雑誌『ルビー』創刊し、私の両親もそれらの雑誌を売り捌さば)くよう、依頼されました。たしか、時は雑誌一冊が二、三十円くらいの値段で、一冊売るごとに一円ずつの謝礼が原島家に入る、という取り決めだったと思います。

 なにじろ、終戦直後の貧しい時代で、ある裁判官が闇米を買うのを潔しとせず、配給米ばかりを食べて餓死した、という時代です。

 私の家も、子供四人に加えて他人の子供が一人、戦地から引き上げてきた母方の叔父、そして母方の祖母と、合わせて一家九人を小学校教員の父の給料一つで養っていかねばならない時でしたから、一冊一円ずつの利益でも有り難く、両親は懸命にあちらこちらの本屋と交渉して、店内にその雑誌を置いてもらっていました。

 ところが『冒険少年』も『ルビー』も、あまり売れませんでした。本屋からの返品が山のようになり、両親の儲けははとんどなく、むしろ返品の一部を買い取ったりして損の方が大きかったようです。

 ある日、私は家の中に置いてあった『ルビー』を何気なく手に取り、ぱらりと開いて見て驚きました。グラビアの写真と本文の始めから終わりまでの挿絵(さしえ)のほとんど全てが、ヌード写真で占められていたのです。私は頭がくらくらし、「いやしくも、これが仏教徒が同信の人々を使ってする仕事か」と、怒りが込み上げてきました。

 こうして、両親が及ばずながらも戸田氏を助けて働いていた頃の二十四年の春、これら二つの雑誌を発行する「日本小学館」に一人の若者が入社しました。二十一歳になったばかりの池田大作氏です。ちなみに、『新・人間欠命』には、戸田社長と雑誌編集者の打ち合わせをする池田氏の姿が描かれています。

 帰宅した父が、「池田君はよく働く。今夜も励ましてきた」と私に語ったことがあります。しかし、あの雑誌『ルビー』の内容を知っていた私は、そう語る父に対しても不信の眼を向け始めていました。

 その後一年もたたないうちに、池田氏編集の二雑誌は廃刊になりました。



 [衝撃④『聖教新聞』のある記事]

 昭和二十六年六月十日付『聖教新聞』の一面に、「不純分子に光る検査の目」「監査部活動対象すでに数名」などの見出しと共に、次のような記事が載っていました。

 「指導監査部は、さきに学会組織編成に当り、会長直属の常用部処としてもうけられたが、ここに矢島周平氏を部長と決定、適任者を得た監査部はいよいよ活動を開始することになった。(中略)戸田会長はこの活動の重要さに留意され、馬場勝種、相原ヤス、和泉ミヨの三名を部員に加えて種々協議した」---私は、監査部員三名の中に、柏原ヤス、和泉ミヨの名前が挙げられているのに、心安からぬものを感じました。

 と申しますのは、私の記憶では昭和二十四、五年頃、本部通達として私の父・原島宏治と小泉隆、辻武寿の三名が謗法者と断定され、学会の全ての役職を解任されて、本部はもちろんのこと、各支部、学会関係の建物、座談会などへの出入りを一切禁止されことがあったのです。私は、「父はさぞかし苦悩するだろう」と心配して様子を見ていましたが、父は、いっこうにショックを受けた気配を見せず、学会活動にあてていた時間を、読書とか家族団欒にあてて、ゆうゆうと毎日を過ごしていました。

 この出入り禁止期間は半年ほどで終わったと思いますが、この事件についての母のうち明け話によれば、「戸田先生の側に仕える御婦人達から讒言(ざんげん)されたのよ」とのことでした。

 右の『性狂新聞』の記事は次のようにも述べています。

 「学会の手で産まれた信者でありながら折伏精神を会得せず折伏形態に外れ、便乗的に学会を利用して自分の立場を保とうする不純分子には断固たる処分がなされるは当然である。(中略)こうした問題になる人物は、会長の意思により最後決定をなし、除名が明らかとなれば、本紙紙上に不名誉なる名をつらねることになる」--何やら、当時盛んに配られていた左翼のアジびらを思わせるような文体ではありませんか。しかも仏教徒としての慈悲の精神が、この記事からは全く感じられません。

 私の不安は二年後に現実のものとなりました。昭和二十八年一月一日付の『聖教』紙上に、私の父が、十二月に文京支部長を解任され、地方統監部長という新しい役職を与えらた、ということが載っていたのです。さらに、同年六月には長らく勤めてきた教学部長の任を解かれ、小平芳平氏が新教学部長となります。私の母も、前年にわけのわからないまま支部婦人部長を解任され、謹慎を命じられていました。

 嘆き悲しむ母に対して、父は常にこう言って慰めていました。「支部長・婦人部長の時は日本一の支部長・婦人部長になり、一会員の時は日本一の会員になればいいじゃないか」と。それを聞いていた私には、いったい、この父は偉大な人物なのか、鈍感な人なのか、わけがわからなくなりました。

 その後、二、三年して、戸田氏は母を呼び寄せ、「側近の言葉を信じて、あなたを辛い目に合わせてしまった。申し訳なかった」と詫び、母に本部副婦人部長の地位を与えて名誉を回復させました。

 近年、よく、「創価学会は、戸田先生が会長の時は良かったが、池田氏がすべてを狂わせてしまった」ということを耳にしますが、しかし、戸田氏と池田氏には多くの共通点があります。

 ただ、戸田会長の時代はまだ会員数が少なかったため、宗門にある程度妥協していただけで、本当の牙(きば)を隠していたのではないか、と私は思います。

 私のささやかな体験に、創価学会にもとから潜(ひそ)む鋭利な牙を、読者に少しでも感じていただければ幸いです。

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