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  • from: ザブさん

    2003年10月26日 12時43分01秒

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    我思う故に我あり

    我思う故に我あり(Cogito,ergo sum.)、これはフランスの哲学者デカルトの残した
    言葉です。
    彼が生きていた中世ヨーロッパでは、真理の基準は全て教会によって決められており、
    彼も当初そのような教育を受けて育ち、学校を卒業した後は独学で勉学に励んでいま
    したが書物による学問に絶望し、志願兵になって戦場に行く等して、「世間という書物」
    つまり実生活の体験により真理をとらえようとしたのです。
    そこで彼はまず、今まで真理とされていた全ての事を疑って見ることにしました。

    『このようにして、少しでも疑うことのできるものはことごとくこれをしりぞけ、それを虚偽
    であると仮想してみると、神もなく、天もなく物体もなく、私たち自身に手も足もなく、身
    体さえもない、と想定することはたやすいことである。
    だからといって、そのようなことを思惟している私たちが、無であると想定することはで
    きない。
    なぜなら、思惟しているものが思惟しているその時に存在していないと考えることは、
    矛盾だからである。
    したがって、<私は思惟する、ゆえに私はある>というこの認識は、秩序正しく哲学し
    ようとするものには誰にでも現れている、あらゆる認識のうちで第一のもっとも確実な
    ものである。』                           (『哲学の原理』)

    つまり、彼はあらゆるものの存在を疑ってみたが、今現在そうやって物事を考えている
    自分の存在を「無」であると疑うことができなかったのです。
    そこで彼はこの「疑っている自分が存在する」という、もっとも確実な事実を第一原理
    として、『演繹法』という思考法により一般的な規則を探求していったのです。

    『演繹法』とは、ある前提や事実をもとにして推理し、合理的に論をすすめ、確実にそ
    うなるという結論を引き出す思考の方法であり、つまり
     1.人は必ず死すべきものである。(大前提)
     2.私は人である。(小前提)
     3.故に私は必ず死すべきものである。(結論)
    というような三段論法がその代表的なもので、この思考法はデカルトの哲学をはじめ
    合理論の基礎となるものなのです。

    そこで当時の私はデカルトのように、あらゆる物事について疑ってみることにしました。
    そうして疑い始めてみると普段今まで疑いもしなかったことの全てが疑えることに気付い
    たのです。
    例えば目に見える物にしても、今自分が実際に見ている物が他の人にも全く同じに見え
    ているとは限らないし、見えていると思っているものが実際にはそこに存在していないの
    かも知れない。
    そもそも見えていると認識しているのは自分の脳なのであって、もしかすると目などは実
    際は存在せず、培養液か何かの中に脳だけが浮かんでいて、外部からの電気的な信号
    によって見えていると認識させられているのかも知れない。
    そうやってとことん追究していくと、今現在に存在していると思っている自分自身の存在で
    すら、遙か未来に冷凍催眠中の人間が見させられている夢、もしくは巧妙に作られたある
    人物の人生シュミレーションプログラムなのかも知れないとも考えられてしまう訳です。
    と言う風に、このようにあらゆる物を疑ってみて、どうやっても疑うことができないもの、そ
    れが『真実』なのだと私は思っています。
    とは言っても、私にはそれがいまだ見つけられずにいるんですけど。

    さて、話はちょっと変わりますが、今の世の中にはあらゆる情報が飛び交っています。
    特にテレビのワイドショー番組や週刊誌などでは、根も葉もないようなくだらないうわさ
    話などがことしやかに放送され書き立てられています。
    私はそのたぐいのものは大っ嫌いであり、あえて見ないことにしているのですが、もし見
    たとしてもそのたぐいは8割方信じないことにしていますし、人の口から直接私の耳に入
    る話も半分位しか信じないことにしています。
    と言うのも、私は基本的に
    「実際に自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたもの、匂いをかいだもの、舌で感じた
    もの、触ってみたもの、以外は信じない」
    と考えているからです。

    こういう風に書くと、「人の話を最初っから疑うべきではない」と言われるかもしれません
    が、私は別にその人が嘘を言っていると疑っているわけではありません。
    出典はどこか忘れましたが古い話で、目の見えない人が何人かで象を触ってその感想
    を人に話したのですが、鼻を触った人は「象は長いものだ」と言い、耳を触った人は「象は
    薄っぺらいものだ」と言い、胴の部分を触った人は「固い壁のようなものだ」と言ったという
    話があります。
    その誰もが嘘を言っているわけではなく、素直な感想を述べているのですが、実はその
    誰もが正しい象の姿を述べてはいませんね。

    上の話は極端な例ですが、人は物事を認識するのに必ずと言っていいほどその人の主
    観が入るものです。
    ですから、その人が「嘘を言っているのではないか」と疑うのではなく、その人の「事実に
    対する認識に誤りがある可能性がある」と言うことを前提に話を聞く、と言うことにしている
    のです。
    そこで、その話の内容の事実関係を自分で実際に確かめてみてから信じても別に遅くは
    ないと私は思っています。
    まあ、確かめる余裕のない緊急の場合は別で、その場の周囲の状況から合理的に判断
    して結論を出すしかありませんが・・・。

    で、ここで忘れてはならないことがあります。
    それは、自分と言う人間も例外ではないと言うことです。
    私は、たとえ自分の目で実際に見たことでも、よほどのことがない限り他人に話したりは
    しないことにしています。
    そもそも私は、他人のうわさ話や悪口を言うことが大っ嫌いな人間ですし、また他人の知
    らない秘密を自分だけが知っていると言うことに密かな喜びを感じる人間だと言うこともあ
    るのでしょうが、その時自分が知り得た情報はただ表面的な事実でしかなく、その裏にあ
    る真実と言うものについては全く解っていないからです。
    その事(事実と真実)については別な項目で書くことにしていますので、ここでは書き控え
    させていたきます。

    ある物事について一つの情報を得たとしても、その一つの情報のみでその物事を判断する
    のはとても危険なことだと私は思います。
    テレビの報道番組でもそうですが、同じ事件を報道しているにもかかわらず、各局によって
    異なった報道がなされると言うことはよくあることです。
    それは前にも述べたとおり、それぞれの主観により報道の方向性が違うからです。
    ですから、一つのある特定の立場から物事を見るのではなく、色々な立場に立ち様々な方
    向から物事を見、考えるようにして、ある事実について真実は解らなくとも、できるだけ認識
    を誤らないようにしなくてはいけないと私は常々考えています。

    蛇足ですが、このようにある物事について様々な情報を集め、取捨選択して真実を探ろうと
    いう考え方を哲学上では『帰納法』と呼んでいます。

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