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from: かめきちさん
2009/08/08 20:38:07
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フィクションの悲しみ
花を見ると全体の容姿より花弁に目がいってしまう。覗きこみ透かし見て、ああ生きてる、とあたりまえのことに感動したりする。その色素を取り出してみると多くの場合、花弁の色とは違う色をしているそうだ。白い花には白い色素はなく(自然界には白い色素など存在しない)あれは気泡と光の関係で白く見えるだけだという。凛として気高い白ユリも、何のことはない、潰してみれば半透明でぶよぶよの細胞膜と水分で出来ており、どこにも白い色素は存在していないのだ。
そんなものさ、と思ったり、だからユリも人間も、かなしくて素敵じゃないの、と思ったりする。
口を開くか書くかすると、変に強そうで明快になってしまうのがかなしい。ユリの話ではなくて私のことだ。
あまり元気ではないが「元気よ」と言い切ってしまう。思ったこともありのままを外に出すのは無責任だし、だいいいち格好悪いから、多少無理してでもやはり、整理して明快に言い切ってしまうところがある。
いったんそうしても、あとに逡巡は残る。
自分に正直に生きる、と言うけれど、それもまたずいぶん矛盾した言い方だ、と突然思えてくる。生きることも表現することと同様、自分のなかのあるものを択び、ほかを捨てることだ。捨てたり封じこめたりしたものの造反、攻撃、恨みに必死で耐え、ときには闘い、それでも平気な顔をしている。大変に不正直な状態を、生きると言うのではないだろうか。「ウッソー」という声を聞きながらも「だって仕方ないじゃない。どっちかに決めなくてはならなかったんだもの」と自分に言いきかせ口を引き結ぶ。択ぶことなしに、そして捨てることなしに、生きることも表現することも出来ないのだから。
花弁を光に透かして 高樹 のぶ子
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