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from: クマさんさん
2006/08/19 06:50:32
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ゲド戦記を観た
物語の初めに、父親である国王は主人公である少年によって殺される。
父親殺しから、長男の人間としての旅立ちが始まった。
父は国王として国民から信頼され、尊敬される人物だった。
しかし、思春期を迎え、
魂と肉体との均衡を保てなくなった少年にとっては、
訳もなく倒さねばにらない大人となってしまったのだろう。
彼は一人で旅に出た。
砂漠の中で狼たちの群れに囲まれる。
闇の影はこうした孤独な少年の魂に襲いかかってくる。
少年は自分でも知らぬ内なる恐ろしい力でこの狼たちを撃退する。
偶然それを観ていたハイタカ(ゲド)は、
この少年に一緒に旅をしようと誘うのだった。
魔法使いから大賢者になったハイタカは、
少年にとっては一人ぼっちの人生の案内人となる。
人間の欲望と野心の渦巻く大都会で、
恐ろしい麻薬に手を出しかけた彼を厳しく叱り、
影の世界に入り込むことで、
人間であることの尊厳を失わぬようにとハイタカは諭すのだった。
人間としての尊厳とはいったい何だろうか?
少年は、孤独で、不安で、自分が分からず、
何も見えない将来に怯えていた。
少年は一人であったが、一人では生きられない弱く、愚かな存在だった。
本当の自分探しの旅に出ながら、
本当の自分から逃避していた。
本当の自分(本当の名前)で呼ばれることをひどく恐れていた。
なぜならば、本当の自分になったとき、
自分で決断し、自分の生きる道を己で選択しなければならないからだ。
大人になるのに、あと少し年(経験)が足りないのだ。
だから、彼は少年と呼ばれる。
ハイタカは、世界の均衡が破られ始めている原因を見極めようと一人で旅をしている。
小さな畑を女で一人で守っている彼女は、逞しく農民として生きていた。
テルは両親から捨てられた一人ぼっちの女の子であるが、
自分を守り、一人ぼっちの心の戦いの中で生きていた。
少年が出会った三人は、一人ずつ生きている三人だった。
一人であること。
それも、まっすぐに光の中で一人で生き抜くこと。
それが、人間の尊厳なのではないだろうか?
それでは、少年にとってその眩しいばかりの強さや逞しさの輝きとは、
いったいどうやって人間は手に入れることができるのだろうか?
それは、この三人の生き方が象徴しているのかもしれない。
一人であること。
光の中でまっすぐに生き続けること。
心の戦いを戦い続けること。
そして、いつも希望をもつこと。
そこに人間が人間らしく生きることの尊厳があるのだ。
この生き方の全く正反対の生き方が、影なのだ。
クモという魔女が象徴するように、
影の中を歩くことの誘惑が少年を迷わせ、
ハイタカに刃を突きつけさせた。
まるであの父親殺しの場面のように。
光と影との絶対の違いは何かと考えてみた。
それは、光は人の命には終わりがあることをあきらめていることであり、
影は、不老不死を求め、限られた命から逃避しようとすることではないだろうか。
テルの一言で、少年はクモとの戦いに突き進んでいく。
「命は誰かのためにあり、
その限られた命を誰かに繋げていくことが生きることなの」
実は本当のセリフを忘れてしまった。
こんな意味だったと思う。
これは、「日本沈没」(これほど感動して泣けた映画は最近なかったなぁ)のテーマと同じだった。
人間の尊厳。
それは、限りある命をどう使うかなのだ。
生かされているから命はある。
助けられ、育てられているから命はあるのだ。
一人で生きてきたわけではない。
おかげさまの中で生きている。
それを、ありがたいと感じるか、迷惑なことと感じるか。
十代の頃、私は家出をしたかった。
この命の使い方が分からず悶々としていたからである。
影に憧れ、体制に戦いを挑んだ。
光の道は私の生きる道ではないと信じたかったからだ。
アウトローという言葉に憧れ、孤独の闇のどん詰まりだった。
命の使い方が分からなかったからだ。
命の使い方。
それを使命と言う。
少年は、三人の人間と出会って自分の命の使い方が分かった。
そこで、心と魂との遍歴は終わるのである。
ただし、平安の中でけっして人間は命の使い方と出会わぬのである。
孤独で、辛く、切なく、どろどろの青春の旅。
そんな魂の遍歴を経ない限り安住の我が家へは帰れないのである。
願わくば、そんな孤独な旅にハイタカのような賢者の道案内人がいてくれたら、
平凡に単純に生きて働くことの喜びを感じさせてくれる人と出会えたら、
そして、テルのように美しい魂の同志(女性)がいたら。
命をどう使うか。
一人一人にはミッションが与えられてあるはずだ。
それが本当の自分である。
その本当の自分に出会うまでの長い長い戦いの日々を戦うことが、
実は人間の尊厳なのではないだろうか?
この映画の題名を思い出してもらいたい。
「ゲド戦記」
ハイタカは、少年であり、少年は、ハイタカであるのだ。
私たち一人一人はこの世界で自分自身の魂の「戦記」を書ききらねばならぬのである。
偉大なる父を葬った少年は、
孤独なる「ゲド戦記」によって、
アニメ界の偉大なる父になるのである。
これは、高畑自らのために描かれた映画なのだと思った。
私はゲド戦記を観た。-
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