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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2010/01/23 06:34:05

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    弱さを原点にする

    勢いのあるものは、いずれ勢いをなくす。
    激しく強い流れも、いつかは静まりおとなしい流れに変わる。
    逞しく雄々しいものも、いつの間にか老いていく。
    自然とは、変遷することである。

    それだけのことだ。
    それだけのことなのに、
    なかなかそのことが分からない。
    だから、時には自然は大きな重荷を人間に与える。
    孤独・絶望・病・苦しみ・痛み
    その時、気づくことは、
    何と自分という人間は「弱い」ものであったかということだ。

    そこから、人は、再び人としての道を歩き始める。
    そこから、人としての歩みを再び始める。
    「人として」それも「弱い人ととして」何を為すべきか考えながら。

    すると、周りの人たちの「弱さ」が見えるはずだ。
    威張ったり、強がったり、人を見下したりする人にも、
    実はその強がった分の反比例で「弱さ」が存在している。
    そういう人の心の寂しさと悲しさとが見えるはずだ。

    「弱さ」を認め、「弱さ」を引き受け、「弱さ」で生きるとき、
    肩から力が抜け、人からどう想われようともかまわないと思い、
    こんな自分だけれども、ちっとはいいとこあるさと思えるようになる。
    何よりも、「弱さ」を原点とすることで、
    たくさんの仲間(御同行)と出会えるのである。

    「人は、弱い時に強い」これは、イエスの言葉である。
    私はこうして人生の峠を越え、下山しながら、
    自分の体の衰えと、疲れと、弱さとを感じる。
    若かったころのようには何事もいかないのである。
    それを、心で認めながら下山している。

    すると、里に近づく。
    しかし、その里が違って見えるのだ。
    「弱さの人たち」それは私を含めた人たちだ。
    「どげんせんといかん」と誰かが言っていたように、
    その人たちのために何とかしなければならない仕事がたくさんあることに気づくのだ。

    道元さんも、親鸞さんも、良寛さんも、
    イエスさんも、お釈迦さんも、
    ある意味「弱い」自分が原点なのだと私は想う。
    厳しく・過酷で・孤独な修行の中で悟りの光を得た時、
    「はっ」と感じ、みんな山を降りて里に向かったのである。
    なぜならば、そこで苦しみもがき、助けを求める人たちがいたからである。

    「弱くてよかった」と想うことがある。
    でも、「弱さの中から強い力を引き出す」のは、
    その人が、誰かのために懸命に生きたときだけなのである。
    不思議なことだが、無私の行為・奉仕の心をもって実践するときだけ、
    人の真の強さが発揮されるのだと思っている。

    金のため、名誉や地位のため、権力のため、自分だけのため、
    人は、この欲望に憑かれているとき、
    どんどんと疲弊して弱って行くのである。
    そして、最期は人々から見放され、孤独な末路を辿るのだ。

    「弱いもの、それが人だよ」
    「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」みつを

    この言葉、真実だなぁと本当に思う。

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