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  • from: クマさんさん

    2012/02/14 05:53:11

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    山ノ下の歴史について

    山ノ下のことをこだわった記事が欲しいと言われ、
    ある通信にコラムを今年から書いている。
    自分が住んでいる地域の歴史を知ることは、
    そこに生きる自分たちの原点を知ることであり、
    生き方を学ぶことであると感じたからだ。

    探せば、どの土地にもそれなりの歴史的な素材はあるものだ。
    山ノ下は大正・昭和と大きな工場が出来てから人口が増えた町だと思っている人が多い。
    しかし、よくよく歴史を振り返ると、この地に「沼垂」は存在していたのである。
    それは「長者伝説」でも分かるはずだ。
    沼垂が移転してからは、御三家がこの地に住み、開墾を続けた。
    神明神社は、現在の地に移され、祭りは現代にも通じている。

    何よりも647年(大化2年)に渟足の柵が造られたという記述が日本書紀?に残されている。
    養老年間に造られた「木簡」には、「沼垂城」の文字が残されている。
    つまり、沼垂はこの地に約1350年前にその原型が大和朝廷によって築かれていたのだ。
    私は、その柵があった場所を、大山台だと考えている。
    古地図に記されているように阿賀野川右岸に、沼垂の文字が残されているからだ。
    新潟市の歴史博物館「みなとぴあ」でも、この地を沼垂の柵の場所として推定している。

    もっともっと昔に遡れば、数千年前の縄文時代には、
    新津丘陵等に大和朝廷から蝦夷と呼ばれた人たちが、
    自然と共生する文化と伝統とをもって暮らしていたはずである。
    当時はこの新潟平野は海や潟であったために、舟で行き来をしたはずだ。
    鮭や貝を獲る為に縄文人たちは、海に臨む砂丘にキャンプを張ったそうだ。
    この山ノ下の砂丘列が当時から存在していたら、
    きっとこの地を、縄文人も踏んだはずだ。

    つまり、こう考えると、山ノ下の歴史とは、縄文時代から続いていると考えてもよさそうなものだ。
    それは、あくまでも私のような素人の仮説であるが、
    その証拠を発見しようと生涯をかけている学者が新潟市にはいるのである。

    ああ。コラムの〆切が迫っている。
    どうしようと考えている内に、こんなことを書いてしまった。
    話半分で読んでもらいたい。

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