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from: クマさんさん
2012/05/11 03:56:02
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夜中に考える
毎朝、走るようにしている。
毎朝、読書している。
そのために、この掲示板を書く時間がなくなった。
4時半に起きるようになった。
夜明けが早くなったからだ。
年をとるとはこういうことなのかと、
自分のことを振り返ると思うことがある。
「死者」は存在する。
私たちが生きている世界が消えゆく世界であり、
死者が居る世界は実存する世界ではないか。
またまたわけの分からないことを夜中に書いている。
それは、どういうわけか私が出会った様々な出来事が、
いろいろな姿や形で同じことを私に教えているのではないかと思ったからだ。
それは何かとは、なかなか言えるものではなかった。
ただし、「物語」がその様々な気づきの共通項のような気がしている。
死者は、傍らにいつも居る。
そして、いつも私と共に苦しみを苦しみ、悲しみを悲しんでいる。
孤独だからこそ、愛を知り、愛の存在である他者を感ずる。
悲しみに在るからこそ、共にその悲しみを分かっち合ってくれる他者を感ずる。
その他者とは、家族であり、友人であり、恋人であるかもしれない。
しかし、今出会っている他者は、この世に存在しない他者のことなのだ。
その他者は、他者であり、我である。
不思議な一体感で分かち難い存在としてここにある。
その他者を想うと希望が生まれる。
その他者を想うと力が生まれる。
自分は独りであったのではなく、その他者の愛と共に生かされていたのだ。
そして、その実存する他者が語りかけることばこそ、
私たちが心の感度を透明にし、ただ黙って耳を澄ませて、聴くべき物語だったのだ。
そのことばに、生きる意味が隠されている。
そのことばに素直に聴き従うことこそ、
人が人としての尊厳と自由ををもって生きることなのではないだろうか。
私たちは、見に見えるものや手に持てるものや触れるものだけを信じすぎて来たのではないだろうか。
目に見えないものこそ、「在る」という実感と発見を、
もっともっとすべきだったのだ。
そして、その見えないものだけが私たちに「愛する」ことを教えてくれていたのだった。
そして、改めて考えてみたら、それを語り、伝える人たちは確かにいた。
イエスやブッダがそうだった。
親鸞や道元や良寛がそうだった。
私にとっては宮沢賢治もその一人だ。
モーツァルトの音楽も、その見えない世界からの物語だと思っている。
つまり、見えない世界から帰って来た人はいないけれども、
見えない世界を物語る人はいてくれたのである。
私は、舞台とはその実在する見えない世界をこそ表現できる場であると感じている。
ここで演じられる物語りこそ、死者と言う他者がこの世の人たちに語る真実の物語りなのである。
「夜と霧」以来、そんなことばかり考えている。
それで、毎朝お地蔵様に会いたくなって、走っている。
この出会いも不思議なものと素直にこの身を委ねている。
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