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from: クマさんさん
2012/06/14 09:36:32
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14(木) 母は呼吸している
昨日は、朝食の後片付けをしてから病院に行った。
3階の父の病室に行くと、父が辛そうな顔で眠っていた。
父も入院一週間となり、退屈で仕方ない様子だった。
あれだけテレビが好きだった父だが、
テレビは観なくていいと、テレビカードを買っていない。
トイレには自分で行けないために、看護師さんを呼んでの車椅子だ。
リハビリを開始していたが、左手には力が入らないようだ。
何だか回復への希望を失っている父だった。
母に会うように誘ってみても、首を横に振るばかりだった。
点滴を付けて、車椅子では、母の所には行きたくないのだそうだ。
母は、ただ只管ぐっすりと眠っていた。
口を少し開けて、息の音も聴こえないくらい静かな呼吸だった。
ベッドの位置が縦置きに変わった。
もう寝がえりを打ってベッドから落ちる心配がないからだそうだ。
父はその心配があるから、まだ横置きの位置なのかと納得した。
脈拍や血圧を表示するモニターもなくなっていた。
看護師さんに聞いたら、ちやんとナースセンターに情報は電波で送られているそうだ。
叔母と妹とがお昼前に帰った後、私は独りで母と居た。
時々、母を呼び、声をかけるが、何の反応もしなかった。
母は、ここで生きているが、本当にここに居るのは母なのだろうか。
私は、何だか既に母の魂はこの身体を抜けて、
私の事を背中の上から見下ろしているのではないかと感じた。
人は、呼吸をするから人なのではなく、
何だか人としての魂や想いや考えがあるから人なのではないかと、
またまた余計なことを考えた。
私は、母に語りかける時、その語りかけに応えているのは、
そこには居ない、目には見えない母の魂に対してだと感じている。
昨年の東日本大震災の後、私が想い、信じていることは、
魂は不滅であり、それは生まれもせず、死にもしないということだった。
朽ちて果てて行く肉体ではなく、
そこに在り、その胸の中で息づき、
深い深いところで永遠なる在るものとつながり、交信している魂こそ、
人が、人と呼ばれるための実存なのだと考えている。
不思議だが、そう考えると、何だか悲しくなくなり、
自然な姿として人の死を受け入れられるのだ。
昨夜、暗い座敷で母を呼んだ。
台所の流しに向かって、母を呼んだ。
車庫から車を出す時に、いつも見送ってくれる母に「行って来ます」と声をかけた。
そこには、あたかもいつものように母が居るように私には感じられた。
今、こうしていても母が傍に居てくれるような気がする。
身体を持つ間は、その身体のある場所に限定されていた母は、
今は、自由に、想いのまま、その居場所を変え、
想いのある人の傍に居て、その人を見つめて、語りかけているはずである。
目には見えないものの存在を認められないほど、
貧しい想像力しかもたなくなった現代の人たち。
実は、真実も、美も、善も、目には見えない世界から伝えられ、
受け継がれて来たものたちばかりなのだ。
見えないものを信ずる力こそ、信仰であり、愛であるかもしれない。
何故ならば、その見えない世界からのメッセージは、愛に溢れ、愛そのものであるからだ。
すると、森羅万象、全て目に見える自然の姿がその見えない世界の愛につながり、
私たちに絶えず語りかけ、呼びかけ、
そのまるこどの姿のまま実存していることが分かるはずだ。
全てのことは明らかだったのだ。
それは、魂を通して私自身の胸の中で感じ、感動すると、
私もその目の見えない世界の住民の一人として、
戸籍をこの世から、その世に移すことができるのである。
母は、今、私に死に方を教えている気がしてならない。
いつまでも私の先を歩く、偉大なルナである。
母のとても安らかで、無心で無垢な寝顔を見ていると、
「安心しなさい」「大丈夫だよ」「全部お任せしなさい」との声が聞こえる。
この声は、聴こえない世界の音の存在を信じられない人には、絶対に聴こえないはずである。
それは、魂と魂とのかすかな共鳴・共振でしか相手に伝わらないからである。
ないものは、あるのだ。
私は、この母の最期への旅の姿を見つめながら、
この世の人がないものと決めつけて、忘れ去っているものと、
どれだけ邂逅できたことだろうか。
「メメント・モリ」
ここからしか、その世界への入り口はないのだろう。
母の余命の宣告は、この魂への信念がなかったら、とても虚しく、悲しい現実である。
魂は生きている。そして、魂は死なないのだ。
その真実を本当に腑に落ちて信じられるかどうかで、
やはりその人の人生は決まるような気がする。
震災以降、本当に母を通しながら死と言う絶対な事実と向き合い続けている。
10月に東区市民劇団で上演した「王瀬の長者 復興編」のテーマは、これだった。
肉体は朽ちる。ただし、魂は不滅なのだ。
いや、魂こそ「不生不滅」の実在なのだということだった。
お地蔵様に毎朝お参りに行く。
このお地蔵様が、その世との通り道であった。
頭を垂れてお参りする時、私の身体はここにあっても、
私の魂が呼びかけている先は、私の魂の故郷なのではないだろうか。
通りがかりの人から見たら、ただの石のお地蔵様と鉢巻きジョキング親父である。
しかし、私が語りかけ、私の語りかけを聴いてくれるその彼方は、
やっぱりみんながそこから生まれ、死んだらそこに帰る場所ではないだろうか。
想像力とは、死者との交信ができる力である。
死者とは、絶えず生者に物語りを語り続ける存在である。
その物語りこそ、劇的なる真実の表現を通して、
この世の人たちの目に見え、音に聴こえる表現に改め直し、
舞台と言う異空間で演じられるのが、演劇なのである。
私は、母が意識を薄くし、夢の中で遊ぶようになってから、
母と離れたこの家で、母と語り、母に呼び掛け、母を見つめることが多くなった。
それは、母からも同じことが言えるのだ。
母は、ここに居てくれる。
母は、私たちの永遠のルナなのだから。
コメント: 全1件
from: wakaさん
2012/06/14 19:24:52
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「Re:14(木) 母は呼吸している」
ご両親が少しでも好転されることをお祈り申し上げます
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