新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークル内の発言を検索する

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマさんさん

    2012/07/18 09:35:50

    icon

    弱い私

    まんまの日記。それはそれでありがたいと言う言葉に救われる。
    私は、この経験から学んだことをここに記そうと願っていた。
    だから、日々刻々と変わる状況の中で、私が体験し想った事を素直に記した。
    するとある友から励ましのメッセージが届いた。
    大変な状況を共感的に理解してくれながら、その位置から応援してくれている。
    抱えているのは、私一人ではないのだった。

    人は、弱さで繋がれる。
    弱い私は、その弱さを語ることにしている。
    駄目な私は、その駄目さ加減を話すことにしている。
    するとすっと心が楽になる。
    それは、その話を親身になって聴いてくれ、共感してくれる友がいるからだ。

    私は、自分のことを知れば知るほど、人に物を言えなくなっている。
    というか、繋がれる人たちが、ある意味限定されて来ている気がする。
    傲慢な人や、人を見下す人や、頑固な人や、偏見をもっている人とは、
    話が繋がらないものと、はなっから諦めているからだ。
    しかし、そんな人たちは、私がその種の人なのだと批判はするが・・・・。

    私は、弱さとは生きやすい生き方ではないかとも想うようになっている。
    無理をすることはないのだし、格好を付けたり、強がったりすることもないからだ。
    「子供みたいな人だ」と、言われることもある。
    「素直な心の人だ」と、褒められる?こともあった。
    しかし、このような生き方をしている人は、確かにこの世の中では生きずらいのである。
    それは、立場や主義やセクトを優先的に守ろうとすることなく、
    あるがままにあるがままを語れるからだと思っている。

    「この立場では、こんなことを言っては後がまずい」とか、
    「本当はそうなのだが、自分を守るためにはそれは言わないでおこう」とか言うことがないからだ。
    在る意味守るべき地位も権威も全くないのだから、
    個人的に自由に発言できるのだ。
    だから、人から叩かれ、批判され、やっつけられることがたびたびでもあった。
    私は、その人たちとはかかわらない自由もあった。

    弱さとは、実は個としての自由に繋がる道なのだと私は思っている。
    弱さで孤立した時、必ずその弱さを支えてくれる友が現われる。
    弱さで居る時、孤独の中で語り会うのは、神や仏や永遠なる存在に対してである。
    祈ることをするのは、弱さ故である。
    助けを必死に求めるのも、弱さからである。
    しかし、その時、必ずや助けは来るのだし、
    その力強い手で溺れかかり、沈みかかっている私の手は握られ、
    そして、水の中より引き上げられるのだった。

    弱さこそ、実は目には見えなくとも実在している愛に最も近い生き方なのだ。
    私たちは、いつも見守られ、心配され、手助けしようと待ち構えているある者に守護されて生きている。
    それは、今では母なのかもしれない。
    「自分が、自分が」と言っている間は、その存在には全く気付かずに人生を通り過ぎて行く。
    ところが、そんな自信もへし折られ、挫折を味わい、絶望のどん底に叩き落とされた時、
    そう、「死んでしまいたい」とすら思った時に、
    その人は、私のすぐ傍に居て、
    私と一緒に悲しみと苦しみとを分ちあっていてくれたのだった。

    それは、慈悲であった。
    「辛かったのゥ。悲しかったのゥ。分かる。分かる。」と言いながら、
    私の為に涙を流し、私の為に祈ってくれる。それがその人だった。
    まさにその人こそ、子供のように愚直で、素直な魂で、私の弱さに向かってくれる。
    弱さとは、私が慈悲に出会うための通り道だった。

    何故、弱さが自由に生きられる道となるか。
    それは、私が流れゆく世の中の声に惑わされず、
    私を救ってくれたその声のみに聴き従って生きるからなのだ。
    その声がこう生きよと言っていたら、その声のまま生きればよいのだ。
    人は、弱さからしかその声を聴くことができないのだった。

    その声に聴き従う自由とは、人の為に自分を捨てる自由でもあるのだった。
    「仏道を習うとは、自己を習うことなり、自己を習うことは、自己を忘れることなり、自己を忘れるとは、万法に証せられるなり。」
    その言葉が向こうからやって来て、私を包むためには、
    私なんていらないんだ。私なんてどうにもならない者なんだと、
    そこまで落ち切らないと、人は私を空っぽにすることができないのだった。

    だから、その人に愛されている人は、その人の言葉がその人の中に入るために、。
    いったん邪魔な自分と言うちっぽけな人を捨て去る必要がある。
    そのために、試練を天が与えるそうだ。
    そのどん底の闇の中から、私は弱さの涙を流しながら、手を合わせたし、
    助けを求め、最後にはお任せすることにしてさっぱりとした。

    実は、弱さと強さとは、一体なのである。
    しかし、単に強さだけの人を私は知っているが、
    それは脆さなのであり、愚かさであり、孤立する道なのだとは本人すら知らぬのだ。
    強さは、哀れだった。

    弱さこそ、強さである。
    強さこそ、弱さである。

    連日「いじめ」についての報道が続いている。

    私は、弱さで人と人とが繋がれる世の中こそ、豊かな世の中なのだと信じている。

    弱さは大切なんだ。
    弱さこそ人を人にしてくれる力をもっているんだ。
    弱さからしか人は優しさを学べないのだ。
    私は、弱い人だ。
    いいじゃないか。弱い人で。
    私はこれからも弱い人で生きて行く。

    だから、お願いします。
    傍に居てください。
    そして、一緒に歩いて下さい。

    あなたが居たら、
    こんな弱い私でも生きていけます。

    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 4

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件