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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2013/01/16 21:53:00

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    突然ですが、愛について

    ああ、そうか寂しい私には、この掲示板は独白の場であったんだなぁ。
    ワインを飲んで酩酊しながら、語りたい寂しさをここに語る。
    聴いてくれる人は居ない。
    でも、この語りは「私」の語りなのだ。
    その「私」は、私を超越した大いなるものであったりする。
    私の私的な話でありながら、「私」が語ることで、誰かにつながる。

    物語もそうだった。
    物語はとても私的なものだったりするけれど、
    見る人に共感と涙とを誘うこともある。
    そこには、見る人の「私」が存在するからだった。

    語りたかった。
    語りながら発見したかった。
    しかし、対話のためには、対話する相手が必要なのだ。
    そして、希に人は人生の中で、この語られてはいない心の想いを、
    本当に分かち合えるであろう人と出会うものだ。

    「この人だ」と、想った瞬間に、人は愛するものである。
    本来あるはずの自分を、
    それはまだ自分ではわけもわからない自分を、
    分かってくれるだろう、そんな自分を好きになってくれるだろう人には、
    やっぱり、人は愛を感ずるものだと思う。

    人は、一つになれるものだ。
    その私を超越した「私」となる時、
    それはもはや私ではなく、あなたが私になっているのだ。
    言葉はいらない。
    そんな深い深い繋がりが、二人の間には生まれるのだ。
    不思議な感覚だった。
    別々な存在でありながら、まるで私があなたであなたが私だったという驚きの感覚なのだ。

    どこに居たの?
    今までどうやって生きて来たの?
    やっと出会えたね。
    二人には、これまでの時間は必要だったんだね。と言う出会いである。

    しかし、二人はこれほどまでに愛し合っても、一つにはなれないのである。
    それは、人間の宿命ではないだろうか。
    その人のために死ねると想っていても、
    その人の幸せだけを願っていたとしても、
    二人は、一つには決して、絶対になれないのである。

    究極の愛の状況とは、孤と孤との出会いなのではないだろうか。
    求めれば求めるほど寂しくなる。
    こんなにも愛しているのに、孤独を感ずる。
    愛することで孤立感を深めるとしたら、それは愛ではないのかもしれない・・・・。


    しかし、「私」の立場からは、深い深い想いが溢れている。
    それは、アガペーなのだ。
    魂の故郷は、全ての人は同じなのである。
    それは大自然の真っ只中、空と海と風と月と夕日の世界だ。
    人は、愛すれば愛するほど切なく、寂しく、孤独になるのかもしれない。
    寂しさとは、愛の反語であり、同意語なのではないだろうか。

    では、なぜ、愛することは、寂しさなのだろうか。
    どう愛したら、人は人を寂しさを感じないまま、愛することに徹せられるのであろうか。
    あなたは、私ではなく、
    私は、あなたではない。

    しかし、私は、あなたで在りたく、
    あなたには、私であって欲しい。
    だが、絶対に融け合うことは有り得ないのだ。

    その融け合うことのできない二人に、
    どうして愛が与えられたのであろうか?
    時には、愛とは切ないものである。

    しかし、そもさん、せっぱ。なのである。
    本来は、愛することで、幸せになるはずなのだ。
    魂の故郷から溢れくるその想いに全てを委ねてひたすら尽くすとき。
    本来の「何のために生きているか」という問に対する、
    喜びに満ちた答えになるはずなのだ。

    愛することは、難しいものである。
    しかし、人は愛するためにこの世に存在しているのである。
    「いかに、愛するか」
    それは、「いかに生きるか」と、一体である人の生き方に対する問いなのだと、今も想う。

    愛する人は、いるだろうか。
    その人に、どれだけの愛を伝えているだろうか。
    もし、その愛が報われなかったとしたら、
    その愛は、価値なきものとして、忘れ去られるようなものなのか。

    人は、愛されることは、天恵であるかもしれないが、
    しかし、愛することは、できるのではないだろうか。
    たとえ、その人からそっぽをむかれ、否定され、背中を向けられたとしても、
    私からその人への愛には変わりないと言える愛が、存在するのではないだろうか。

    アガペーなのだ。
    このアガペーとは、自分を虚しくして、自分を愚かにすることでこそ、
    初めて我が胸の奥底の泉から湧き上がるものなのだ。

    アガペーが、愛の原点だなぁ。
    こんなことを55歳の中年男が考えているのだ。
    そして、気づいた。

    愛なくして、人はこの世を生き行けるものではないのだ。
    ただし、愛とは、意思でもあるのだ。
    愛とは、己を忘れ、捨ててこそ生まれ来るものであるのだ。
    その深さを信じて、委ねるとき、
    愛は、愛としての自ずからの働きを、私の中で働くのではないだろうか。
    愛することを命を懸けて選択するが、
    その後のことは、「私」から生まれる愛に素直に聞き従えばいいのではないだろうか。


    愛とは、人の想いを超えるものである。
    不可思議な存在から生まれ来るものである。
    ならば、信ずればよいのだ。
    その「私」が命ずる、その言葉を。

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