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from: クマさんさん
2013/01/29 06:35:11
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「同事」について
インフルエンザの大流行のようである。
幸い私はまだ罹患していないようだが、いつ罹患してもえかしくない状況なのだ。
手洗いとうがいとの予防に務めるだけである。
本を読んでいたら、仏道の修行の四摂事の一つに「同事」があった。
私でないものはないという境地のことらしい。
私が出会う人は、全て私なのだという想いなのかもしれない。
その人の気持ちは、よく分かると共感する気持ちであるかもしれない。
仏教としての「同事」はよく分からないが。
このその人は、私なのだという同情・共感は、人として大切な思いだと感じている。
よく人の気持ちが分からない人と言われる人がいる。
その人は、自分が言ったり、したりしていることが、
相手にどのように受け取られ、感じられているのかが分からない人なのだ。
しかし、相手の心や想いを感じるためには、
私は、私であってはならないのである。
人の心と想いとが分かるためには、私はその人そのものにならねばならないのだ。
それは、想像力とは、少し違うようで。
ただ、相手を見るだけで、相手を感じるだけで、
内から切々とこみ上げ、溢れてくる想いであるような気がする。
理屈では説明できない、この胸の奥にジーンとして存在する想いなのだ。
この想いとは、不思議なもので。
どんな人の想いとも重なり、一致して、その想いと一になる想いでもあるのだった。
「ああ、そうだったのか。」
「やっぱりこんな辛さの中で生きていたのか。」
「大変だったろうな。悲しかったろうな。」
そんなこみ上げてくる「同情」でもある。
しかし、よくよく考えれば、この「同事」や「同情」とは、
人である全ての人には生まれながらにして天より与えられている想いでもあるのだ。
そして、それは菩薩が私たちに日々感じ、想い、
傍らで私たちに伝えようとしている想いや願いでもあるのだった。
この世は、実は菩薩の「同事」や「同情」、つまり「慈悲」に満ちているのだ。
私は、人から優しくされ、人から愛されて、その存在を私の胸の内に知ることができた。
菩薩が先だった。
人は、体験したことのみ真実と感ずることができる。
私は、数知れぬ「同事」や「同情」に支えられ、助けられて生きて来た。
毎日チーンで母にも語り、母は私の愚痴や辛さを聴いてくれる。
「お父さんも大変だねぇ。」
「大丈夫だよ。心配しないで。」
そんな声が聴こえるようで、一安心して席を立つ。
「同事」や「同情」とは、人の悲しみや辛さに共感する力である。
そして、その悲しみや辛さに対して私の無力さを知ることでもあった。
私は、その悲しみや辛さを取り去り、癒すことはできない私である。
ただ、私ができるのは、その人のことを日々心配し、その人の幸せを祈ることだけである。
私だけは、その人を見守っていこう。
私だけでも、その人の助けになろう。
そのためには、その人の傍らに立ち、その人の想いを想いながら、歩いていこう。
そうした生き方が、人にもできるのだ。
その生き方を全うする日々の生活こそ、仏道修行なのだと教えられた。
共感し、同情し、慈悲の想いでその人の傍らに立つことは、私にもできるのだ。
そして、この四苦八苦の日々の中で生き抜いている私たちのことを、
最も共感し、同情し、慈悲の眼差しで見守っていてくださるのが、菩薩なのだった。
だから、私は日々「同事」の修行だけでも忘れまいと思っている。
「同事」は、全ての人に既に罹患しているはずである。
それをある機会で発症するか否かは、その人の縁なのであった。-
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