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from: クマさんさん
2013/11/29 21:26:56
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さてさて、自然のままとは難しいものだ
「人生の悲哀に直面したときに、哲学が始まる」
すごいなぁ。その通りだなぁと、この言葉を書き留めて思ったよ。
きっとこの人も、その人生の悲哀に直面して、立ち往生してしまったのだろうね。
実は、人生とは、無情なもので、苦であり、悲哀に満ちたものなんだな。
だから、釈迦は愛する妻と子供とを捨てて、修行の旅に出たんだよね。
苦こそ、人生なんだな。
その苦をどう解決するかが、釈迦の苦行の目的でした。
私の悲哀は、昨年六月の母の死かな。
もっともっとここまで生きるまでには悲哀の連続だったけれど、
その度にどう生きたらいいのかを、考えて来たけれど、
やっぱり最も愛する人との別れほど、悲哀はないと想いました。
でも、母の臨終に立会い、母が危篤となり、だんだんと血圧が下がり、
あっと言う間に呼吸が途絶えた時に、私は、母はこの身体にはいないことを確信したよ。
医師が「ご臨終です」と言ったとき、私は母に向かって拍手をした。
ここまで家族のために全てを投げ出し、尽くし、いのちを削った生き方には、
ただただ敬意と賞賛しかなかったからだ。
生きるとは、いかに死ぬかということだったらしい。
母が居なくなってしまった抜け殻の身体と一緒に、バンに乗った。
母の亡骸はここにあるけれど、母の魂は、私の傍に居てくれる。
魂と出会うことから、実は、哲学が始まるのではないだろうか。
母は、今でも生きているのだ。
「わがはからいにあらず。自然法爾」
ここで突然親鸞の話になるところが、やっぱり私だね。
これは、五木寛之と梅原猛の「仏の発見」をここから突然に読み出したからなんだ。
私は、実は縄文が21世紀の世界を救うと信じている人である。
日本人のもっていた、太古からの信仰の中に、現代の課題を解決するヒントは隠されている。
そう信じている一人なのだ。
さて、親鸞の思想の難しいことは、私は知らない。
ただ、親鸞は私は大好きな人である。
自分の人としての煩悩を認め、その煩悩をもつ人でありながら、
救われる道を魂が血みどろになりながら求めつ続けた人だからだ。
「悪人正機」という考えがある。
後に、この思想は本願ぼこりとして間違って伝えられ、親鸞の苦悩となったことは、
現在新潟日報に連載されている「親鸞」に書かれている。
ただ、ここで言いたいことは、あるべきように生きることが人の生きる道であり、
それは、私が決めることではなく、仏が既に決めていることであるということだった。
「無為自然」と老子が語った。
この「法爾」とは、そのままに、お任せいたします、という心が現れた言葉なのだ。
人が、自然界の一部であるなら、この無情であり、変化するそのままの自然に、
全てを委ねて生きることこそ、仏が願う道なのだと言うことだった。
本当は、この生き方こそ、楽で、自由な生き方なのだが、なかなかどうして、難儀なのだ。-
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