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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2014/03/22 10:04:41

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    吾と出会うことこそ

    今日の日報に若松英輔氏が「手紙」という題で、一文を載せていた。
    「書く事で、内から支えられているものに気づくことがある。」
    自分の想いを書くことは、自分を知ることである。
    そして、自分を内から支え、励まし、応援している自分自身の声を聴くことでもある。
    意味は違うとは思うが、私は書くことによって救われた経験を何度もっている。

    実は、Aさんにも書くことを勧めた。
    「書くことで、自分と出会えるよ。」
    Aさんにとってはわけのわからないことかもしれない。
    しかし、「手紙」のようにして、自分に向かって書くことは、
    言葉を通して自分自身を発見する有効な手段だった。

    ある意味では、私は私との対話をここでしている。
    二人が、独りぼっちになってから、
    なおさら、自分との対話が増えている気がする。
    語るのは、吾である。吾が言う。
    その吾とは、自分の中の自分なのだ。

    独りになると、その吾がずっとそこに居てくれたことにまた気づく。
    この吾との長い長い旅が、私の人生だった。
    その吾と、こうして独りぼっちになると再会できる。
    なぜなら、話し相手は、この吾しか居ないからだ。
    その吾は、深くて、大きくて、果てしもなく永遠と繋がる吾だ。
    どんなことがあろうとも、人は、けっして独りにはなれない。
    それが、絶望のどん底での私の発見だった。

    たとえ、友が居なくても、愛する人が去っていっても、この吾は存在し続ける。
    沈思黙考の孤独な中で、この吾だけは私から去らないことを信じている。
    どれだけ愛しても、人は去っていく。しかし、この吾は、私が死んでも吾である。
    書くこことは、この私の中に存在し、私を私であり続けさせようとする吾と、
    向き合うことなのかもしれない。
    言葉とは、その吾の表現なのだ。

    私がこの掲示板を10年間も書き続けてきたのは、
    私の中の吾がそうさせ、私を通して語りかけてきたからだ。
    そのことを、私は、Aさんにも分かってもらいたかった。
    そして、AさんにもAさんの中に存在している吾と出会って欲しかったからだ。

    吾という人になることを、「悟り」と呼ぶ。
    「自己を忘れることである。自己を忘れ、万法に証せられることを悟りと呼ぶ」道元
    自己を捨て、自己を忘れない限り、真面目なる吾と成りえないのだ。
    私の中に存在しながら、吾とはかくも遠く遥かなものなのだ。

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