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from: クマさんさん
2015/09/09 05:51:52
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分かりあえる
人は、他の人をどれだけ理解できるのだろうか。
私は、そうではない環境に置かれながら、
いつもそれは自分ではないと思いつつ、寂しいものを感じている。
それは、相手もきっと同じことなのだろう。
私のことを「分からない人」だと、そう言われる。
「分からない人」その一言で、私が分かられる。
でも、私にしても「分かろう」とはしている。
少しでも相手の気持ちになって考えようともしている。
しかし、ほんの些細な場面でまた衝突をしてしまい、
その後は、やっぱり少なからぬ後悔だった。
問題は、人と人とは「分かりあう」ことはできるのだろうかということだった。
「分かる」とは、「私の思い通りに生きて」ということと違うのだと私は思っている。
「分かる」ための前提は、「違う」ということを認め合うことからなのではないだろうか。
「違う」から、努力しなければ「分からない」のだし、
その「違う人」と合わせて生きるためには、
私自身も「変わらねば」ならないと、いつも思っている。
ところが、その「変わらねばならない」が、とてもとても難しい。
私という「我」が、頑としてはねつけ、素直になれない。
その「我執」を捨てることこそが、日々の修業なんだと思いつつ、
感情的になってしまい、「変わる」から遠ざかっていく。
ああ、ちっぽけで、どうにもならない私だった。
ただ、こうして生きてみて分かったことは、
「自分が正しい」「お前は、こうだ」と、言い切れる「正義」の怖さだった。
「正義は、怖い」
変な言い方かもしれないが、批判と否定にさらされて、
私にはそのことがよくよく分かった。
「正義の人」とは、自分の思う正しさ以外の存在は、
どんなことでも認めようとはしない人だ。
右か左か。
オール・オァ・ナッシング。
そして、自分の判断したことが、やっぱり正しいことで、
そうではない生き方や、考え方は、その正しさの前では「駄目」なものとして否定される。
ただ、私のようにいい加減に、中途半端に生きてきた者にとっては、
その正義がとてもとても生き辛い環境となってしまう。
「嘘をついた」「人のものを盗った」「人に迷惑をかけた」
これは人としては確かにやってはいけないことである。
しかし、間違いの多い人生を生きている私のような人は、
そんな罪をも時には犯してしまうこともあるのだった。
しかし、その罪を自覚して、悔悛しようとしているその人に対して、
やっぱり「正義」は厳しく断罪し続けるのだろうなぁと思っている。
「赦されない」ということは、「ああ、そうですか」と分かりました、どうでもいいです、
と、言う気持ちに人を追い込んで行く。
「あなたの罪は赦された。行きなさい。もう二度と罪を犯してはいけません」 イエス
分からない。分かりあえない。だから、人はお互いに分かりあおうとする。
その努力は、けっしてけっして忘れてはならない。
もうひとつは、だからこそ、己を空しくして、相手の気持ちに共感することなんだ。
しかし、それができない自分がここにいる。
そのことこそが、「罪」なんだと、イエスは言っているのかもしれなかった。
確かに、私が「無」になれば、一つになれるのだ。
そんな大事なこともできないまま年をとってしまったことも、
私の「罪」なのだと、今、これを書きながら気づいた。
正義の前に、人はそれぞれ生きていることによる「罪」を抱いて生きている存在だと、
自覚することが、大切なのだと、反省しつつ、そう思った。
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