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親父たちよ

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from: クマドンさん

2015/11/10 06:19:11

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人生は予兆に満ちている

どうにもならない私がここに居る。本当にどうしてこんなになってしまうのか、自分のことで呆れたり、途方に暮れることが多くなった。何でそうなるの。そんな呟き

どうにもならない私がここに居る。

本当にどうしてこんなになってしまうのか、
自分のことで呆れたり、途方に暮れることが多くなった。
何でそうなるの。
そんな呟きをしてしまうことの多い私。
これが、年を取るということなんだろうなぁ。

だから、何でとは思わないことにする。
そういうこともあるさ。
そんなことばかりなのさと、諦める。
年を取るということは、この諦めるが多くなることなのか。

昨日は、携帯と財布とを忘れて仕事に行った。
そのことに気付いたのは、泰平橋の渋滞の最中だ。
無一文だ。
まったくそのことに気付かないでそこまで車で走っていた。

今朝、燃えるゴミなんだと、黄色いごみ袋に台所のごみをまとめた。
まだ出るかもと思い、口を縛らなかった。
すると起きて来た妻が、
「何でごみ袋に入れたん」と、怪訝な声で聞いて来た。
だって、今日は・・・・、「あっ」火曜日か・・・・。
我が地域は、燃えるごみの収集日が水曜日だった。

そんなことにも気づかないでここに生きている。
またまた、こうして書いていたら、すごい数のあれはムクドリなのだろうか。
何万羽という大集団で、押し寄せて来た。
電線にそれが一斉に止まった様は、何だかぞっとするぐらい恐ろしいものだった。

あの鳥たちの集団移動は、きっと何かを伝える予兆なのだと思っている。
そう言えばあの時の、あのことは・・・・である。
この数万羽の群れの声を聴きながら、それは何かと考える。

そして、私の老いへの予兆もそうした意味で、
きっと何かを私に知らせようとしているに違いない。
私は、ただそれを受け入れるのみである。

今、目がしょぼしょぼとして開けにくい。
それは、昨夜映画を観ながら号泣していたからだ。
「八日目の蝉」
愛する親の気持ちの深さと哀しさとを、これだけ描いた映画はあっただろうか。
とにかく、誘拐犯の母親とその女の子の小豆島での生活がいいんだなぁ。
そして、現実に生きる成人した彼女が、その自分を探す旅がまたまたいいんだ。
人は、やっぱり愛されて生きて来た。

そして、子どもがそこに居てくれたことで、
親は生きるの喜びも感動も希望も幸せも味わうことができたんだ。
まず、幼い子どもを育てている母親たちには必見の映画だ。
それは母親の無償で無垢な愛を描いた傑作だった。

声を出して泣いていた私。
本当に涙もろくなってしまったものだ。
これもまた老いの予兆なのだと自覚している。
ああ、この涙目で瞼がはれたまま、どうやって一日を過ごそうか・・・・。

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waka せみ

from: せみさん

2015/12/27 13:04:18

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「混沌の時代を生きる」

さて、後2日ここで朝を迎えると帰宅になる。ここから見下ろす街の景色や空と海ともお別れだ。

その人の立場に立たないとその人の痛みや苦しみは分からない。

体験しなければ、気付かないのが人なんだ。

そして、人は生きる意味を求め、意味をいつも探し求めている存在である。

私は、入院してから、何の役にもたたない、人のお世話になってしか生きていけない立場に立たされて、その事を実感した。

しかし、そのおかげで、私が普段の生活の中で個人的な営みを繰り返しながら、決して目を向けたり、気付くことのなかった、ある意味では、弱者であり、差別を受けている人であり、格差の底辺の人であり、障害のある人であり、病人であり、マイノリティの人たちのことについて想うことができたことは幸いだった。

私は、その立場に立たされたことで、その人の痛みと辛さとをやっと少しは分かるようになった。

いかに自己中心に、傲慢に生きてきたことか。いろいろなものを失ってみて、そのことに気付くこともできた。

こうして自分のことを振り返って、見つめ直す機会がなかったか。たとえあったとしてもそれに気付かずに見過ごして来たのだろうと思った。

どう生きたらよいのだろうか。それは、生きているみんなが思うことだろう。しかし、その答えはこうなのだと断定できる答えはないのだ。いや、その答えを「今、ここ、私は」で問われ、行動で応えて行くことが、生きることの意味なのだとも私は知った。

私が可能なことは今日、このメッセージを書き終わったら何をするか決めることだし、それを確実に実行することだ。

実に単純で明解だった。ただし、その選択において、私が道を踏み外すことがなく、人としての道を歩むための選択であることを祈りながら生きる。

選択と決断と実行と考察。その瞬時の積み重ねの中に生きる意味は存在している。人がそれぞれの立場で人らしく在ることで、その人は生きている意味を初めて深く実感できる。

入院は、フランクルではないが、ある意味強制的に収容されたようなものだった。私は、活動の自由は奪われ、そこから先の未来も予測できない状況だった。そして、そうなってやっと分かったのは、私と同じ病人の気持ちだった。

健康な時、全く考えないことだった。いつ回復するのか分からない状況では、障害について考えた。その障害は、生きている間、生涯に渡って続くものだと。障害には、回復も退院もなかった。

そこで思ったことは、看護師さんたちの日々の姿だった。声をかけ、励まし、支え、いつも見守り、待機している「献身」だった。

人は、献身という生き方で生きていくことができる。私は、私のことばかり考えていた。私は、私さえよければいいと思っていた。しかし、その生き方こそ、人としての道から外れた生き方なのだとは、健康で、思い通りに生きている限り、気付かないで終わる生き方だった。

苦悩こそ意味がある。挫折や時には絶望こそ生きる意味がある。なぜなら、そこに至って初めて人は、社会の中で沈んでいるからこそ見えないマイノリティの存在に気づき、その人たちは自分だったのだと分かるからだ。

弱さと悲しみは、人を繋げる。そこに至って初めて「共感」と「同情」が生まれる。彼は、私だ。彼女は、私だ。ではどうする。どう生きる。深く深く沈まない限り、人と人との共感的な理解は生まれない。分かち合うことができないからだ。

分かち合うためには、私にはこの手術と入院生活が必要だった。つまり、体験した痛みや苦しみからしか、私は本当に学べなかった。それが、よく分かった。

人の痛みを分かるために、その人の履いている靴を履きなさい。

今、大人も子どももみんな必要な生き方とは、これではないだろうか。その人になる。すると、奪うのではなく、与えるの意味が理解され、実践されるのだろう。求めるのではなく、捧げるという生き方。持たないという生き方。恩を送るていう生き方。自分はいらないという生き方。自分を無にする生き方。

そんな生き方の幸いに、きっと目覚めるのだと私は思った。

これが「サンデーモーニング」のテーマであった「混沌」への私が今、考えている答えだった。


入院は、私にそのことを気づかせるための学校であったようだ。

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