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from: クマドンさん
2015/12/31 11:33:17
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歩けない私
大晦日だ。今年も本当に波乱万丈だった。
人の幸せとは、平穏無事の他にはないのではないだろうか。
こうしてここにあることの幸せ。
それ以上は、欲なのかもしれないと思っている。
朝は、いつものことをいつものようにと、5時に起きてストレッチからだ。
ところが、体が思うようには動かない。
そんなもどかしさを感じながら、ストレッチを終わる。
それから、朝食前の散歩に出かける。
風に吹かれ、時折ぽつりぽつりと雨が当たる。
大山台の公園には、寒さのせいか誰も散歩している人は居なかった。
歩くのが難儀になると、立ち止まって桜の枝の冬芽を見ていた。
ああ、おんなじだなぁと、冬芽に何だか自分を感じた。
足の筋肉ががっさりと衰えたようだった。
特に太ももの後ろの筋肉が消えてなくなっていた。
あの時の父の衰えた足のように、か弱く細くなっていた。
すると、しゃんしゃんとは歩けない。
力が入らず、早足にはどうしてもなれない。
お腹の管が入っている部分が痛む。
みぞおちの下が以上に膨らみ、こぶのようなものができている。
そこも疼く。痛む。
たった大山台の公園を一周するだけなのに、
なんとも情けない自分を感じた。
ああ、これが老いなのかと、ふっと感じた。
まだ私はこれから根気強くリハビリを続ければ、
きっといつかはまた山に登ったり、走ったりするまでに回復をすると思う。
しかし、父や母は、こうやって自分の衰えを感じた時には、
ただこれから日々弱っていく自分を感ずるばかりだったろうと、今は想える。
衰えることへの哀しみ。
それは、生きている人なら全ての人にあるものだと、瀬戸内さんが話していた。
いずれみんな老いますよ。
いずれみんな死にますよ。
どうして自分だけ老いたり、死んだりしないとようと願うのですか。
みんな同じ。みんな同じ哀しみを生きている。
私も歩けない自分を見つめて、その哀しみの深さが少し分かる気がした。
「もう歩くのがやっとらて」と、90近くの叔母が電話でよく話す。
そのリアルを見つめて、諦めつつも受け入れることが、
老いて生きるということなのかもしれない。
老いない人は一人もいません。
その通りだと思った。
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