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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016/06/21 05:28:52

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    庭には在る

    さてさて、花たちに教えられることが多い日々を過ごしている。
    夕方、庭に出て、ぼーっとしている。
    この庭がここにあってよかったなぁと、そんなことを感じた。
    それまでは、そんなに深くこの庭のありがたさを感じてはいなかった。
    父の庭だった。
    父がいつもいつも落ち葉一つないように掃き清めた庭だった。
    花は植えられていなかった。
    日本庭園のようなそんな庭を父はこさえていたように感ずる。

    今は野趣に溢れ、自然のままにぼうぼうとしている。
    それでも手を入れ、花や樹木に聴きながら、鋏を入れる。
    「切ることは、育てること。」
    それは、この花たちから教えられたことだった。
    そう考えると、縄文の昔から、人は身近なる自然から、
    きっと生き方の多くを学んだのではないかと、そう想えるようになってきた。

    半分近くの丈に切り込んだ茎の先から、花芽がやっぱり出て来た。
    それは、花そのものに生きる使命があるからだろう。
    小さな薄緑色した花芽は、しっかりと茎の先に育っていた。
    「蘇り」の力だった。

    遅く撒いてしまったヒマワリとコスモスも、プランタで発芽した。
    種は種のままでは、いつまでも発芽しないが、
    土に埋められ、水をもらい、適度な温度となると、自分の殻がはじける。
    種を割っても双葉や根っこはどこにもないが、
    やっぱり植えられると、芽を出して生きようとする。
    これも自然のいのちの使命としての「蘇り」なのだと想う。

    私たちも同じで、一度人生のどこかで死ななければ、
    自然としての私と言う人のもって生まれた使命が果たせないのかもしれない。
    人が、人のまま、人として生きている間は、
    きっとその「蘇り」に至らないだろう。
    「蘇り」とは、その言葉の意味の通り、一度死んだ命だけに許されているからだ。
    「死ぬことは、生きること」なのかもしれない。

    苦難や試練を経て、蘇った先人の言葉に救われることが多い。
    その人は、もしあの苦難や試練が無かったら、
    きっとその人としての言葉の花を咲かすことはなかったはずだ。
    イエスには、十字架があった。
    だからこそ、「私は蘇りであり、命である」と言える。

    私は、あの臨港病院の手術の失敗で、一度は死んだ身体だった。
    本当にそのままでは命そのものが危ういと想われ、
    緊急に新大病院に救急車で運ばれた。
    そして裸になって処置されながら、
    「これから緊急に手術しますね」と、医師から言われた。
    運命とは不思議なもので、今は二度目の手術の時を待つ身でもある。

    しかし、私は、全てを受け入れ、感謝すらしている。
    それは、私の命の力そのものを、私が信じているからでもあった。
    実は、人は、自然なのだ。
    この花や樹木、野菜たちと同じ、自然の命として生かされている存在だ。
    ということは、この庭で起こっていることは、私にも起こる。
    この庭で起こらないことは、私には起こらない。
    それだけのこと。

    七月の二度目の開腹手術を想うと、怖くなる。
    でも、それは私と言う人が通らなければならない道であるならば、
    それは、私の使命として与えられ、恵まれた道なのだと想っている。

    案外、庭に全ての真理は存在し、明らかなのではないだろうか。

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