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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016/08/10 09:54:32

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    「我執を捨てて、ただなんとなく」by蒲水先生

    昨日は。体操ニッポンの金メダルだった。
    朝、FMをつけたら、何と床の演技の実況放送だった。
    それから、テレビをつけて、ずっと体操を観戦していた。
    6位からのスタートで、よくここまで追いついたと想う。
    これはリアルな人間の闘いだった。
    圧倒的な得点で、中国とロシアを寄せ付けなかった。
    練習は嘘をつかない。そして、本番では心を一つに実力を120%発揮する。
    それは、こんなちっぽけな私にも言えることだと、励まされた。

    まず、私がどうにかできることと、
    私にはどうすることもできないこととを見分けることだ。
    長男は、長男の想いで生きている。
    次男は、次男の想いで生きている。
    ただ、そうであっても心配だから言うことは言っている。
    それを聞き流し、それを煩いと感ずるのは、そうだろうと私は想う。
    でも、親ができることは、心配することだ。
    だから、見ていて、困ったものだと想うことだけは、言うようにしている。

    身体のことでまたストレスを感じ始めている。
    こうしてもみぞおちの深い穴から生臭い匂いがする。
    陥没し、ぽっかりと穴が開いている。
    これがどういう風に治るというのか、その予想すらつかなかった。
    しかし、これも私の想いとは別な存在としてここにある。

    こうしていても、きっと身体の細胞たちは元の身体に戻ろうと、
    きっと悪戦苦闘を続けてくれていると信じている。
    私が勝手にもうだめだ。どうしてこんなことになってしまったのだと、嘆いても、
    この身体の穴は埋まらない。
    嘆いたり、怒ったり、イライラしたりすることは、全くこの傷には無駄なことだ。
    ところが、やっぱり感情の人だから、
    どうしてもどうにもならないこの穴を見つめて、辛くなってしまうのだ。

    庭に出ていることが多くなった。
    遅く植えた向日葵は、まだ花芽さえつけていない。
    ひょろひょろとか細い茎に、薄緑色の葉っぱだけがついている。
    ああ、向日葵は向日葵として置かれた環境に従って生きている。
    花を咲かせられず、この真夏を過ごしてしまったとしても、
    焦ることなく、自分を責めることなく、ただあるがままを生きている。

    ふと、あの病室の大先輩たちのことも思い出された。
    3か月目に入ったHさんは、抗がん剤を服用して効果を見ている最中だった。
    同じくKさんは、来週に迫った肝臓摘出手術に向けて体力をつけ、
    せっせと毎食前に真っ黒で苦い胆汁を飲んでいる。
    四度目の大手術を待っているIさんは、本当に淡々と好好爺で日々を過ごした。
    指が五本無い左手だが、そんなことを嘆いていることもなく、
    じっと静かに笑顔で生活している。

    さて、どうして私はこうして人のことや、いろいろな不運な状況のことで、
    感情を乱し、自分の気持ちを害してしまうことが多いのだろう。
    腹を立てたら何とかなるのか。
    きつく言ったら何か変わるのか。
    どうしてこんなことにと、自分を憐れんで嘆いたら、
    この穴はふさがると言うのか。

    そう考えると、本当にちっぽけな男だと、自分のことが哀れに想う。
    はい、それは命令したから、そうなるのですか。
    はい、それは嘆いたから、治るのですか。
    はい、それは文句を言い続けたから、変わるのですか。
    いやいや、あの向日葵に向かって怒鳴っていると同じこと。
    「咲けっ」と叫んでも、向日葵は全く動ぜず、我関せずだ。

    そんな感情に左右され、心が動揺するような生き方をやめることだ。
    このどうにもならないことに腹を立てたり、イライラとしたりする、
    ちっぽけな感情をすっぱりと切り捨てる。
    お前はいらないと、はっきりとさっさと別れを告げる。
    そして、病室の彼等大先輩たちのように、
    感情をぶらさず、感情を乱さす、淡々と全てを受け入れ生きて行く。

    これが、私が今、最もやるべき日々の修業だった。
    病室の無菌室のような隔離された場所では、心穏やかに生きられる。
    しかし、この娑婆と言う場所は、なかなか生きるには大変な場所だった。
    家族で生きるということもそうだった。
    自分の身体のこともそうだった。
    そして、自分の健康と老いについても、やっぱりそうなのだとつくづく感ずる。

    「自分を捨てる」
    「我執を捨てて、ただなんとなく」

    人の想いや言葉や態度に動じないことだ。
    それは、私ではないのだから、致し方ないこととして、諦めよう。
    身体がどうにもならない、傷が治らない。
    しかし、それを嘆いたところでその傷が治るわけではないのだから、
    諦めよう。

    鞍馬から落ち、鉄棒から落ち、小さなミスによって得点が上がらない。
    しかし、それをいくら嘆き、悔いたところで、その瞬間は戻っては来ない。
    でも、すっかりチャンスを失ったのではなく、
    まだ目の前には、床運動がある。
    そして、自分の失敗を必死でカバーしてくれる仲間たちが居る。
    その危機に瀕した時に、出される力こそ本物の力だった。
    そして、その力は徹底して練習し、身体に覚え込ませることでしか発揮されない。

    捨てて、今、ここに全力を発揮する。
    結果は、そうすることでついて来る。

    今、私が挑まなければならない心の修業は、自分をすっかり捨てることだ。
    「嘆くな、考えろ」だ。
    「悩むな、行動しろ」だ。

    次の回転技を成功させるために、全力で助走することなんだ。
    こんなところでうじうじと悩んで、イライラとしてどうするんだ。

    選手の演技や闘う姿。
    そして、闘った後の選手の言葉。
    オリンピックでは、実に感動を通して教えられることが多いのだ。

    頑張れ、日本。
    頑張れ、クマさん。

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