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from: クマドンさん
2016/09/19 10:10:08
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廬山は煙雨 浙江は潮
廬山は煙雨 浙江は潮、
到らざれば先般の恨み消せず。
到り得 帰り来れば別事なし、
廬山は煙雨 浙江は潮。
蘇東波
夜中に目覚めたので、何だかどうしてか分からなかったが、
鈴木大拙さんの「禅による生活」を読むことにした。
何だか最近、分からないが、分からないことが楽しくもなっている。
「不思議だなぁ」と感ずることの楽しさとでも言うのだろうか。
「それはこうだよ」とは、言わないし、絶対に言えない。
でも、その言えないと言う境地に何かえも言われぬゆかしさ懐かしさがある気がする。
だから、語らない。黙っている。
しかし、だからSさんと、無性に語りたくもなってしまう。
話がしたい。
「もしもし」と話し出すと、途端に「生きる」の話だった。
そうした話の中に、はっと思う閃きや気付きがあった。
「そうだねぇ」「そうなんだねぇ」と、2人で不思議と肯きあったりする。
それでは、こうですねと、答えのような一言は言えない。
そうであるしああである。
そうも感ずるし、こうも感ずる。
「おもっしぇねぇ」と、Sさんは笑う。
「今のお話を聴いて思い出したんですがね・・・・」と、また次の話題。
そこからはどこへ行くのか話している私たちにも分からない方向へ話は向かう。
あっという間の1時間だ。
新潟市東区大山の私。
小千谷のSさん。
離れていても同じなんだ。
私が気付いたことは、Sさんの気付きでもあった。
不思議だねぇと言うのは、
どうしてそんな簡単のことがわからんかったかなぁと言うことでもあった。
どうしてこんなに同じことを感じているのかと言うことでもあった。
もうすでに私たちが「そうだったんだね」と気付いくことは、
生まれてから今日までの私たちには既にあったことのようだった。
ここにあるのに、どうして気付かずにこれまで生きて来てしまったのだろうか。
それは、確かに向こうにあったものではなく、
私のここにずっと見えずに、分からずに、しまわれていたものに違いなかった。
どうして、私の中にこの身体の中にありながら、
その存在すら気付かずにここまで生きて来たのだろうか。
それは、Sさんとの共通な認識だった。
「生きてみないと分からない」本当にそうだった。
そして、もう一つは、やっぱり苦難には必然的な意味があるということだった。
まっとう、順当、人並み、そのまんま。
その道を「俺が、俺が」で生きて来ただけだったら、
きっとこの不思議には出会わなかったと私は想う。
それは、俺が想ったこと、俺がやったことだけが、大事だったからだ。
ところが、どんなにか俺とは頼りなく、愚かで、弱くて、罪深いものか、
そんなことを苦難の中で見せつけられ、愕然とさせにれ、どうにもならなくなった時、
やっと「本来の自分」が、姿を現してくれるようだった。
この漢詩に出会ったら、どっと感動で、笑いながら涙が流れた。
私が気付いていない「私」が、どっと感じて、動き出し、歓喜した証でもあった。
「おおっ、私が感じて、動いているぞ」と。
その瞬間に流した涙のおかげで、また少しばかり元に「戻れた」気がした。
この深くに隠されていた「私」が感じて、動くとき、
涙は自然と深くから溢れるものだった。
そして、その涙を重ねれば重ねるほど、
私は、純粋な「気」のままの私に戻ることができる気がした。
到らない「私」は、ここに生きていた。
到って、帰って来た「私」が、ここに生きている。
すると、やっぱり「廬山は煙雨 浙江は潮」だった。
その別事なしに、蘇東波は、きっと涙を流し、感動したのだと、私は想った。
我が家もまた、別事なしだ。
アーメン。-
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