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from: クマドンさん
2016/10/15 06:36:40
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掌と手の甲とは。
さてさて、目が覚めてから、自分の手をじっと見ていた。
掌があり手の甲がある。
どちらが表で、どちらが裏かは分からないが、
手というものはそういうものでここにある。
手には、掌と手の甲がある。
そう考えると、光があって闇があることも当たり前なんだと思えた。
楽しみがあり、苦しみがある。
喜びがあり、辛さがある。
生きるがあり、死ぬがある。
生まれるがあり、老いるがある。
盛りがあり、衰えがある。
どちらかがいいから、どちらかはいないというわけにはいかない。
どちらもあって、それがやっぱり当たり前。
この手の表と裏のように、
その二つは不二なのだと、やっぱり想った。
それならば、この手でいいではないだろうか。
Sさんから、学ぶことが多い。
それは、生き方の学びだった。
「柔軟心」と、道元も言っていた。
その柔らかな、どんなものをも受け入れていく、こだわりのなさとでもいうのか。
頑なな心との裏表の、その柔らかな心。
それをもってして生きることの幸せ感とでも言うのだろうか。
私は、そのことをいつもいつも話しながら気付かせられる。
私のように我擬・我見・我慢・我愛の強い男は、
まったくその反対の道を猪突猛進に進んできたものだった。
今、思い返せば、穴があったら入りたいとも想っている。
やっぱり一度死ななくては、人はもう片方の自分のことには気づかないようだ。
掌ばかりを見て、俺が、俺がと息巻いていた。
その結果は、やっぱりそうなるようになったものだった。
いろいろと教えられ、諭され、叱られ、突き放され、呆れられ、
それでもやっぱり、このことには気づかなかった。
あの最中には、私はやっぱり私だった。
でも、しかし、こうして一度死んだ目にあうと、
それは四我のどん底・真っ最中であったことに、今は気付く。
私は、手の甲の存在をすっかり見失っていたようだ。
そんな無知蒙昧の私に対して、
いつもいつも諦めずに呼びかけてくれるものがあった。
私は、きっとその声なき声に導かれて、
やっと今、ここに至ったのだと思っている。
掌の私と、私が忘れ、見失っていた手の甲の私だった。
あれがなかったら、きっと今の私は生きてはいない。
あれがあったから、こうして朝を迎えられる。
あれがあってよかったと思えば、
何を言ってんだと、叱られそうだが、
ここに至るためには、あの道だったのだとも想っている。
まさに聖書にある放蕩息子のたとえ話そのものだった。
還り来てみたら我が家なりだ。
廬山は煙雨 浙江は潮 だ。
それでは、私とは掌ではなく、手の甲だけなのか。
まさか、絶対にそんな私は存在するわけはない。
あらゆる存在には、表と裏。正と悪。光と影。真と偽。浄と穢。
等々、在るものの非なるものはやっぱりそこに存在しているはずだ。
掌に光が当たれば、手の甲は陰になる。
陰陽も一つなんだ。
指一本に全てが在ると、あの偉大なる禅師は教えた。
手一つに全てが現れていると、私は感じた。
では、どちらであればいいのか。
でちらであったらいけないのか。
そんなことでは、これは決してなかったとも分かってきた。
つまり、手とは、そういうものなんだ。
私が生まれるずっとずっと昔からそうだし、
私が死んでからずっとずっとたったとしても、
手とは、そういうものなんだ。
だから、手でいいんだ。
この手でいい。
ただそれだけ。
掌が在り、手の甲がある。
光が在り、影がある。
Sさんの柔軟心の心地よさとは、
手は手でいい。手は手のままでいい。
ああ、ありがたいなぁ、それだけのこと。
善し悪しはあっても、善し悪しはなし。
全てのものは、一のいのちを生きている。
二元があるように見えるが、それは心の迷い。
善くてもいいし、悪しくてもある。
ただし、弱く悪しき人だなぁと想ったら、ただ懺悔すればそれでいい。
自分は、どんなになっても、自分のままだった。
ああ、ありがたいなぁ。
そのことの本来の気付きこそ、Sさんの柔軟心だと、私は想う。
Sさんはどう感じているだろうか。
また、電話で聴きたいものだと、今から楽しみにしている。
こんな私だから、こんな私のままでいいと、このまんまを生きようと願っている。-
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