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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016/11/14 06:19:30

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    自ずから現れるものを

    アートは、私にはよく分からない。
    絵手紙を書いていた時代があった。
    あの頃は、やっぱり何かを感じたから野菜や花を描いたのだと今は想う。
    感じて現す。
    ただ、この感ずるということがまずあるのだろう。
    何かを感じたから、筆を手に取り、キャンパスにその絵を描く。
    それは形あるものでなくてもいい。
    まるで色見本のような絵でも、油絵の色を何層にも塗り重ねた絵でも、
    そこには、きっと露わになった作者の内面があるのだろう。

    今、ここにあるもの。
    今朝はとてもとても胃の具合が悪く、吐きそうで辛いのだが、
    そうなるとこうして思考は停止し、言葉も出ては来なくなる。
    それは、体調が酷いから、感じられなくなっているからだ。
    しかし、どう私の身体があろうとも、
    今、ここにあるものは不変だ。

    万物は「神」が自らを表現しているものである。
    花が咲くのではなく、ある「聖なるもの」が花として現れている。

    これはヴィヴェーカーナンダというインドの宗教者の言葉だ。

    その一なるものを表現することが、彼にとっての生きることだった。

    私の身体が弱り、衰え、例え病にあっても、老いの中にあっても、
    その一なるものは、ずっとここにあり、変わらない。
    生存することは、神を賛美することだと彼は言っている。
    このどうしょうもない私がここに生きていることが、
    その神の賛美となるような生き方をすることに繋がる。
    それも、その一なるものの呼びかけに応えた生き方になるのだったら。

    昨日、障害のある人たちのアートキャンプで作品を観ながら、
    この絵は、この人しか描けない絵だなぁと、ふと想った。
    絶対に真似はできないし、真似をしたところでこの絵の命は真似はできない。
    この人は、この絵と出逢い、この書と出逢い、
    描くことがその人の喜びであり、生きるになった。
    だから、何日も何カ月もかけてもその絵に没頭する。

    それは、自ずから生まれて来る感覚に随っているからだろう。
    その内なる深味からの呼びかけに応答する生き方。
    その自ずからに聴き随う生き方。
    それこそ、無我、無心なる生き方だ。

    没我して、描いて、描いて、描き切っている時、
    きっとそこには一なるものが現れているはずだ。
    眼はじっと自分の描く絵を観ながら、
    一番感動しているのは、
    そうやって動いている自分の手や指が描いている絵と出逢っている、
    その人自身ではないだろうか。

    無というものは存在している。
    無でなければ絶対に現れない一なるものがあるから。
    その無は、ここに存在しなければならない。
    無でなければ露わにならない存在する聖なるものが、
    この作品たちには満ち満ちている。

    羨ましい。
    この胃の具合が悪く、今にも吐きそうなどうにもならない私には、
    描けるはずの無い作品ばかりだった。
    そうした意味では、私は自分で自分を汚し過ぎたな。

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