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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016/11/26 08:31:44

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    朝、ふと想った。

    さてさて、映画「樋口一葉」の結末で読まれた日記だそうだ。

    「我は人の世に病苦と失望とを慰めんために産まれ来つる詩の神の子なり・・・
     我が血をもりし此のふくろの破れざる限り、我はこの美をのこすべく、
     しかしてこの世ほろびざる限り、我が詩は人の命となりぬべきなり」。

    また、この本には次の記述もあった。

    「彼もまた自分の学問を実存的に生きる人だった」と。

    また、同じ書で若松英輔さんはこう書いている。

    「人は何を願うか、それを自由に決めているのではない。
     悲願が人間をつかむものである。悲願とは自己の願いではない。
     その人物に付与される人生における根源的な意味、
     意味的実在といったほうが正確かもしれない」と。

    朝、目覚めるとすぐにスタンドをつけて腹這いのまま本を読む。
    「井筒俊彦 叡知の哲学」 若松英輔著
    難解で難解で、その意味の大部分は理解できないでいる。
    だから、ただこだわらずに読み進めている。
    作者の語りたいことがよく分からなくても、
    そこに在るものを信じて、その言葉を味わい、ただそこを通過している。
    きっといつしか「ああ、そうだった」と分かる日が来ると思うからだ。

    「今は、分からない」
    「でも、分からないということが、よく分かった」
    「だから、知りたい。だから、問いたい。だから、教えてもらいたい」
    しかし、その答えは既に私自身には与えられているはずだった。
    そのことを信ずればそれでいい。
    私の苦難と絶望とが、きっと私の殻を脱ぎ捨てさせ、
    はっと気づく時が来るだろうと想うからだ。

    この言葉を、もっともっと若かった私には、絶対に理解できなかったと想う。
    いや、今でもこの言葉の入り口にも入っていないのかもしれない。
    その宿命を受け入れ、それをそのまま引き受けるということは、
    至極、熾烈なる生き方を課すこととなるはずだからだ。

    実は、私がこの旅の途中で出会いたいと願っている人たちには、
    既に、ここで出会っている。
    その言葉は、「かく生きよ」と、明確に生きる道を指示している。
    ただし、それは、指し示す指であって、その道そのものではない。
    その道は、あの登山道のように私が荷をしょって登ってこそ、
    初めて「これがこの山の道だった」と分かるしろものでもあった。

    「在る」のに、「知らない」。
    「自分である」のに、「自分を探す」。

    ただ、池田晶子さんや、若松英輔さんの言葉を読むたびに想うことは、
    「一つがあるだけ」だ、とうことなのかも知れない。
    そのことを「そうだ」と腑に落ちるために、今、ここを、生かされている。
    それが、私と言う人間に与えられた「生きるの意味」ではないだろうか。

    「生きることに何の意味があるのでしょうか」と、問うことは間違いだ。
    「意味があるから、こうして生かされているのです」と、そう言えることこそ、
    生きるを実感と喜びとをもって生きている人なのだ。

    その一つが、私の人生の様々な場面を通して、呼びかけてくれた。
    それは、成功や得意や自慢の時にでは絶対になかった。
    その反対の、失敗や失意や絶望の闇の中で、初めて出会う言葉であった。
    言葉は、在り続けている。
    ずっとずっと昔から。
    ずっとずっとこれからも。
    それは、始めもなく、終わりもなく、ただ、今、ここに在るだけのものだ。

    感ずる感性がある人は、その言葉を日々、感じて生かされている。
    何故なら、その言葉を語っていないものは、この世には一つも存在しないからだ。
    在るとということは、それ自体で意味が在るということだ。
    その意味だけは、ずっとずっと変わらずにここに在り続ける。
    まさに、傍らに居てくれる、あのモーッアルトの天使だった。

    いかに難解で、理解できない言葉であろうとも、
    その言葉が現している「在るもの」には、全く何も変わりがないのだ。
    どうして、自分のことを語ってくれているのに、
    私は、その自分を現した言葉を理解できないのだろう。
    実に、言葉とは私でありながら、私を超えて存在している。
    この朝日に溢れ輝く暖かな世界は、この言葉に満ちている。

    無になるということは、その言葉そのものになるということだ。
    自分と言うしがらみ、誤謬、迷い、傲慢、欲望、怒り、迷妄、妄信。
    それがすーっと消え去った後に、ここに立っているのが、
    本来の自分・私なのではないだろうか。

    無と言うものが存在するわけはないと、池田さんは言っている。
    言葉とは、存在するものにだけつけられるものだからだ。
    無は、在る。
    ただし、その在り方を、有から想い測っても全く無理なことだった。
    その想い測るそのものを死ぬこと。

    結局、私たちの行きつく先は、
    「人の病苦と失望を慰むるために産まれ来る・・・・」であり、

    それをそのまま「実存的に生きる人」であり、

    その「悲願を生きる人となる」ことだと、「一つ」のことは言葉を語る。

    さてさて、そう生きることのみが、生きる意味的実存なんだ。

    今朝は、そのことを自分自身に言って、聴かせている。
    今、瞬間、朝日が雲から顔を出した。
    その瞬間、輝きに包まれた。

    つまり、お日様は、いつも、ずっと、ここに、居たのだ。

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