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from: クマドンさん
2017/03/30 07:33:18
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痛みは、感謝なんだ
足の痺れと痛みとが続く。
身体は、身体の想いで動く。
私の想いとは関係なく、そのことは非情なことだった。
一週間~10日ぐらいで何とかなるだろうと想っていた。
症状は人それぞれで、治る期間も人それぞれと聴いていた。
大事故でこんなになったわけでもない。
ただ、疲労骨折のようなものだからと、少し甘く見ていたようだった。
治らない。痛みが続く。歩けない。不自由である。
さすがに、昨日は気持ちが沈んだ。怒りも湧いた。
苛々として心が穏やかでいられなかった。
こんな時は、何だか哀しく、何も考えられなくなってしまう。
悩んだところで、嘆いたところで、何も好転はしなかった。
分かっているのだが、余りの理不尽に怒りも生まれる。
「もう、いいでしょう」
「いつまでこんな状況で苦しませるのですか」とは、
一体誰に言っている言葉なのか。
自分の力ではどうにもならないことがある。
どんなに想ったところで、思い通りにはならないことがある。
そんな当たり前のことを、はっきりと病は私に分からせてくれる。
とにかく、自然の治癒力にこの身体を委ねるしかないんだ。
それから、嘆くよりか、考えろということだろう。
悩むよりか、身体を動かせということでもあるかもだ。
嘆く時間。悩む時間は、全く無駄で、精神にはかえって害になる時間だ。
嘆いたところで、悩んだところで、
この痛みと痺れとは、消えることはない。
どんなに悪態をつき、怒鳴ったところで、
この痛みは何も変わらず、この足首に居座り、痛めつける。
だから、そのことを否定するのではなく、共存することだ。
拒否するから腹が立つのだから、それを当たり前とすることだ。
「痛い」は、当たり前。
「痺れる」は、当たり前。
「歩けない」は、当たり前。
そこに居座り、それを見つめ、それを「しゃないなぁ」と諦める。
「ああ、痛いんだなぁ」と、痛みに話しかける。
「ここが痛むんだね」と、痺れる部分を自分でマッサージする。
「足の着き方を工夫しよう」と、杖を着くタイミングを工夫する。
「分かった、分かった」と、痛むときは布団の中で身体を休める。
それは、身体との対話でもあった。
身体を叱ってはいけない。
身体に向かって怒鳴ってもいけない。
身体は、私の身体としての使命を全うしようと懸命だからだ。
治ろうとしているのは、身体だった。
痛みとは、その治るための予兆でもあるのかも知れない。
確かに、その痛みの頻度・重さ・大きさ・質量そのものが変化している。
あの激烈なる足首がちぎれるような痛みは、今はない。
ただ、そう言っても。
歩けない。座ると痺れる。突然激しい痛みに襲われる。
日常生活ができなくなった。出かけられない。引きこもりから脱出できない。
そんな現実は、現実として、私の心を重く・暗く・孤独にする。
でも、建築家の安藤忠雄氏が語っていた。
彼は、2度の癌の手術で5つの臓器を摘出している。
「膵臓をとっても生きている人はいるのですか」と医師に聴いたら、
「あなたがそうやっても元気で生きる人になってください」と医師に言われたと言う。
「しゃないなぁ」と、毎日5回の血糖値の検査をして、3回のインシュリン注射。
それでも、嘆きもせず。怒りもせず。恨みもせずに、生きている。
世界的な建築家として、今日も新たな挑戦を74歳で行っている。
そうやって生きている人こそが、私たちにとっては励みとなる人だった。
その試練の中でも人間らしく、平常心で生きているその姿が、
私たちにとっては、とてもとても大事な姿なんだと、私には感じられた。
彼が言っていた。
「休むということを、私は人生の中でしていなかったことに気付きました」と。
「働く、働く、また、働く。仕事、仕事、また、仕事」
そんな我武者羅な仕事一筋の生活には、
休むということは何か怠けであり、してはいけないような気持ちになってしまう。
そんな生活の内に、身体の方か悲鳴を上げて、無理な生活をストップさせる。
それは、その人を生かすためであった。
私の腹膜炎・椎間板ヘルニア、彼の癌も然りだった。
自浄作用とでも言うのだろうか、
身体にはそんなセンサーが付いていて、
それ以上すると自滅する段階で、ストップがかかり、病に到る。
身体は、身体として、延命のためのプログラムは既に組み込まれているのだ。
そして、手術の後の長期の療養生活に入った。
そこで、彼は、休むことの大切さに初めて気付いた。私もそうだった。
「本を読んだり、独りで考えたり、何かに気付いたり」と、
自分と向き合うことで、そんな時間は自分にはこれまで全くなかったことに気付いた。
そして、そんな孤独な時間がどれだけ生きるのには大事な時間だとも悟った。
私もそうだった。
少なくとも、この痛みのおかげで、私は安藤氏とつながった気がした。
「そうですよね。私もそうでした」と。
これは、わざわざ言わなくても、分かり合えることでもあった。
不思議なことだが、もし、私が嘆き、苦しみ、怒り、憎んでいたら、
この時間をそうした魂の休息と気付きの時間とすることはできなかったと思う。
そう考えたら、この痛みには感謝なんだ。-
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