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from: クマドンさん
2017/07/13 06:08:06
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時節が来たら
昨日、畑のキュウリ一本が萎れてしまったので、
秋キュウリの苗を求めて、お店に行った。
この時期、暑さのせいか花や野菜の苗たちに元気はなかった。
どういうわけか、その一本のキュウリは枯れた。
弱っていたので水をたっぷりとやったが、駄目だった。
こうなると野菜たちは潔い。
萎れたまま、ただゆっくりと弱って、枯れていく。
それがそれで自然なんだと、教えられる。
この暑さで、驚いたことがある。
いつの間にか、ミニトマトの丈が伸び、大きくなっていた。
ゴーヤの葉っぱは、あんなに小さくて、蔓も細くて心配したが、
黙々と育ち、葉が大きく深い緑で、蔓はネットを飛び越えて、
上のつげの葉っぱに自由実在に巻き付いている。
スイカもそうだった。
なかなか伸びないので、どうなることかと案じていたが、
何のことはない。
この猛暑で元気にその蔓を葉っぱと一緒に伸ばしている。
それは、カボチャも同じだった。
待ってましたとばかりに、ネットにしがみつき、
昇り始めた。
同じというものは一つもなく。
日々、刻々、目には見えない変化を積み重ね、
気付くと驚くべきことになっている。
「変わる」「育つ」その力と働きは、ずっとずっとここにある。
そのことが無くなったためしはなく、
ただ気付かないだけなんだ。
私がこうして生きていても、それは同じだ。
無意識のうちに、その働きは、日々、刻々だった。
弱ることもあり、枯れることもある。
しかし、それで終わりではない、
生きているという間は、その時その時に応じた手当がやって来る。
たっぷりと水をやる。
追肥する。
お日さまを浴びれるように位置を変える。
すると、あんなに萎れていた花たちが、元気を取り戻す。
だから、「変わらない」のでもなく、「育たない」のでもない。
その時節・その機会・その機微に出会うと、
その条件が揃うと、その「蘇生」の力はむくっと起きだし、発揮される。
それが、野菜や花たちの日々の姿だった。
「待ってました」とばかりに、この猛暑だ。
その熱さと日差しとを全身に受けて、喜んでどんどん延びて行く。
何も考えることはない。
そのままにして、任せていればいい。
伸びる時節には伸びるのだし、育つ時節には育つんだ。
しかし、そうではない時節もある。
しかし、季節とは、へ巡るものだ。
きっと、必ず、いつかは変わる。
その「変わる」ことに対する信頼が、
野菜や花たちがもっている信仰のように感ずる。
信ずるということは、絶対の受動である。
この野菜や花たちは、そうやって生きて、そうやって去って行く。
確かに一本のキュウリは、その生涯を全うできなかったかもしれない。
ただし、このキュウリの命は、ずっとずっと続いて来た命で、
どこにも途絶えたことも、死んだことのない命だ。
彼は、私に、去り方の自然さを教えてくれた。
そこに「こだわり」はない。
去る時節には、去る。
いろいろな条件が重なり、
隣のキュウリは元気いっぱいに繁茂し、実をつけていても、
何も恨まず、何も羨まず、嘆かず、泣かず、ただそのままに。
キュウリ一本の悟りの姿。
その姿を魅せてから、彼は去ったが、消えてしまったわけではない。
彼は、ただ生まれて来た土に還るだけだ。
私は、その隣に「秋キュウリ」を植えた。
そして、元気に育ってくれよと、水をたっぷりとやった。
後は、この一本のキュウリの宿命だった。
「変わるものは、変わる」「育つものは、育つ」
それをどうだとはとやかく言わない、想わない。
それが無分別・無心の世界というものなのかもしれないなぁ。
「ああ、キュウリも茂って実をつけたから、私も何だか元気が出て来た」
「そうだよなぁ。キュウリが静かに去るならば、私もきっとそうしよう」かな。
私の庭の野菜や花たちは、
私にとっていかに生きるかの先生のようだった。
年を取ると、人の中に先生を発見することは稀有なこととなる。
しかし、よりあるがままに近づくのか、死に近づくのか、
野菜や花の声なき声から学んでいる自分がここに居る。
その自覚が何よりも嬉しい59歳と11カ月だ。
「生まれない・死なない」-
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