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from: クマドンさん
2017/07/25 06:20:09
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雨上がりの朝
何だかねぇ。
自然というものは、すごいもので、
人の思いや願いに全く関係なく、ただそのままに働いて行く。
無情と言えば無常だし。暴流と言えば暴流だ。
あの土砂降りの雨はどうだろう。
止むことを知らない。
どこにこんなに雨があったのかと驚くほどの降りようだ。
雨すら降ることを止めさせられない。
それが私たち人間の現実だなあ。
土砂降りと変換して驚いた。
土と砂が降りてくる。つまり、土砂崩れなんだな。
雨が降れば降るほど地面は水を含み緩くなる。
そして、耐えられなくなった斜面が崩れ落ちる。
それが自然な姿なんだ。
その最中には、私には祈りしかないと想っている。
太古の昔からそうであったように、
天を動かす神様に、ただお祈りするばかりだ。
自分の力ではどうにもできないものは在る。
そんな力や働きの中で生かされているのが、私だった。
ならば、その力と働きの大きさに気付き、驚き、畏怖して、
ただそれを黙って見つめて耐えるしかない。
しかし、その激しく降っていた雨も、今は止んでいる。
その雨のおかげで、涼しい朝だ。
小鳥もちっちゃく鳴いている。
その激しさはいつかはきっと止むものだった。
そのことも、この雨は教えてくれる。
7月一カ月に降る雨が、佐渡では昨日一日で降ったそうだ。
50年に一度の大雨とニュースでは言っていた。
誰がそんなことを決めたのか。
また来週もこの激しい豪雨があるかもしれない。
すると一周間に2度ある豪雨とでも呼ぶのだろうか。
確かに、この土地の気候は変わった。
大きな気候の変化の現れが、この集中豪雨だろう。
新潟は既に亜熱帯地帯になっているのかもしれない。
それは、私の中にも、私の人生そのものにも起きたことだ。
縁によって、何かの条件がそろうことで、
こうした何とか帯という雨雲のラインが出来て、
次々と雷を伴って、激しい雨を降らせていく。
それは、私の無意識なる世界も同じことだった。
私は、私をコントロールできないままに、
無意識から現れる欲望や煩悩に悩み、翻弄された。
そんな私のことを理性では知りながらも、
その無意識の力や働きによって突き動かされ、
まっすぐに曲がったまま、その生き方を貫いてしまう。
怒涛のような運命は、そのための必然だった。
無意識の集中豪雨は、確かに私には存在していた。
そこで、知ったのは。
私自身の無力さだった。
この激しい雷雨を去らすことは私にはできなかった。
その最中にあって、苦悩しつつ、悶えつつも、
そこから抜け出すことは不可能だった。
しかし、そのことがあったからこそ、
その無意識なる大いなる力と働きの存在を実感できた。
土砂降りの雨は在る。
そして、そのことに気付くことで、
この激しい雨は、いつまでも続かない雨であることも知った。
どん底の闇には、必ず一筋の微かな光が差し込むものだ。
あの激しい雨は、どこへ行ってしまったのか。
今は、小鳥が鳴いでいる。
さてさて、これからだと、そう感じている。
それでは、この「今、ここ」をどう生きたらよいのかと。
その問いも、この同じ無意識の世界からやってくるものだ。
頭で考えると、ろくなことはなかった。
自分が、自分がからは、対立と批判しか生まれてこない。
静かに、平安に、ただなんとなく今を生きるためには、
やっぱりそこに私を委ねることだと、少しずつ分かって来た。
何も考えないと、考えがひらめくものだ。
何もしていないと、自然と身体は動くものだ。
のほほんとしていると、何だか本来の自由であるを感ずるものだ。
まず、「無」にすることだ。
土砂降りのあの激しい雨は、私だった。
そして、こうして雨上がりの静かな朝も、私に他ならない。
今朝、ふと気付いたことがある。
「あれっ、私って父や母から生まれてはいないなぁ」ということに。
「私は、ずっときっと私のままだったんじゃないかなぁ」と。
「つまり、私は、時間の中で私が現れ、見えなくなった」
「そんなこの激しい雨のような存在なのではないのかなぁ」と。
「ただ、ある縁があったから、ここに生まれた」
「その無意識の中の記憶の、一つの顕れに過ぎないのではないかなぁ」
「つまり、私はずっとずっと在り続けていたのだし」
「これからもずっとずっと在り続けるんだ」と。
「無意識と言う阿頼耶識の世界が、私を私としているだけ」
「あの雷雨が至って土砂降りを降らせ、時至れば、去って行ったように」
なのかなぁと、不思議と阿頼耶識に成り切っている私。
そうすると、頭で考えている私は、もういらない。
ただ、この阿頼耶識のまま、のほほんと、何も考えず、心動かさずだ。
そこから呼ばれる声だけが、真言なんだろうなぁ。
人は、大いなる目的をもって生まれてきている。
これはある唯識の研究をされている仏教学者さんの言葉だった。
それは、フランクの言う、命からのその人への「問い」と同じことだ。
彼が言っていた。
1 自己究明
2 生死解決
3 他者救済
人は、この道をたどるものだと。
またまた、どうどうめぐりの最中に入った。
でも、そのカオスに落ち着けるようになったことが、何だか嬉しい雨上がりの朝。-
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