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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/09/13 06:31:54

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    太鼓の稽古

    日蓮は泣かねど、涙ひまなし    日蓮

    さて、祭りの太鼓の稽古が始まった。
    四日間だけの集中稽古だ。
    それも、今回が初めての小学校低学年のみなさんだ。
    これがとてもとても可愛くて、いい。

    私は、教えに行ってはいるが、師匠からはこてんぱんだった。
    「へたくそ」「稽古せえ」「なっちゃいないな」だな。
    直会という反省会で、いつもはっきりと引導を渡される。
    いつもしゅんとなるが、えいままよと、また懲りずに太鼓を叩きにやって来る。
    そんな魅力が、この祭りの太鼓にはいっぺこと詰まっている。

    その楽しさを、この子たちに伝えてやりたい。
    そのリズム、その叩き方、その繰り返しをどうやって教えるか。
    いや、太鼓は、口でいっくら教えても短期間では無理、無理なんだ。
    やっぱりどこかで、何かのきっかけで、身体に沁みる。
    その途端から、その音が、響きが変わる。

    例えば、私の後ろで誰かが叩く。
    すると、私は、聴くとはなしにそっちの太鼓の音を感じている。
    こちらで、1年生の女の子に教えながらも、
    身体はちゃんと、その響きを背中に感じて受けている。
    「おっ」と、想って振り返ることがある。
    「生きているな。響いているな。いいね。いいね」と、身体が言っている。
    同じ太鼓なのに、こんなにも音の響きとは違うものなんだ。

    とてもとても真面目で、しっかりした女の子がいる。
    太鼓の音は、時計のリズムのように、ちゃんと刻もうと聴こえてくる。
    がちがちで肩にぐっと力が入っている2年生の男の子だ。
    「おいおい、もっと力、抜いてみた」と、その子の手を取るのだが、
    私のやるようには、一向に応えない。
    がちがちの力を抜かず、私の通りにはいかないぞとの意志がある。
    「なかなか、おもっしぇ子らな」と、彼の大器晩成が頼もしく感じる。

    2年生の女の子は、おっかなびっくり太鼓を叩く。
    いや、叩くと言うよりか、撥で太鼓に触れると言った方が適切か。
    失敗したらどうしよう。
    できなかったら、恥ずかしいなぁ。
    でも、太鼓を叩きたいから、やりたい。でも、出来ないよ。だな。
    この子にも手をとって、一緒に叩いて、このリズムと響きとを伝える。
    そうなんだ。
    太鼓は、教えられない。だが、伝えることは、できるんだな。

    私が、師匠からこっぴどくコケ降ろされても、
    その師匠たちは、私の下手くそな太鼓の音に耳をいつも傾けてくれていた。
    聴いていないと好き勝手やっていると、
    「何やってんだ」と、お仕置きだった。
    昨日もそうだった。
    「おめさんが、練習せんばねんよ。ほれ、やってみた」
    私は、70代になろうかという師匠の顔を観て、太鼓を叩いた。

    「とんとんとんとん ととんと ん ととん」
    この素朴で単純なリズムの繰り返しなんだが、
    師匠の域に到達するには、至極至極至難の技なんだ。
    それは、身体全体で覚えることだからだ。
    理屈ではない。考えたって、悩んだってできるものでは絶対にない。
    不思議なんだが、その音は、「在る」んだ。
    その音と一体になり、私が、その音になり、音が私になる。
    没我の瞬間というのが、太鼓叩きにはよくある。

    音だけが、ここにあることの心地よさ、幸福感。

    音が「在る」ことが、先で、私は、その音になるために、
    その音であるために、師匠の表情を見つめていた。
    不思議なんだな。
    師匠のちょっとした表情の変化、身体の動き、微妙な肯き、両腕のリズム。
    私の太鼓の音に応答して、その応答が瞬時に変化する。
    その変化こそ、本物の音からの応答だった。

    音は、在る。
    音に、なる。
    自分はいない。
    ただ、音だけがここに響く。

    やっぱり太鼓は、深すぎる。
    本当に私がこの深さを伝えるためには、
    私がこの身体で、この魂で、その深さと一つにならねばならない。
    上手い、下手では、ない。
    音であり、響きそのものであるか、どうかだ。
    師匠たちは、そのことだけを真摯に求める。
    その音だけに、深く深くで反応する。

    私は、子どもたちの手を取り、リズムを口ずさみながら、太鼓を伝えた。
    子どもたちは、私に後ろから抱えられるようにして、太鼓を習った。
    まさに、それは親鳥が、ひなに羽ばたきを伝えるようなものだった。
    教えても、きっと伝わらないな。
    身体で、この子たちがこの初心から、本物の音と響きとを体感すること。
    つまり、身体に沁みこませることしか、
    深い音と響きとは、伝わらないのだと、やっと分かった。

    そのためには、私が、もっと深い親鳥にならねばならない。
    ありがたいなぁ。
    太鼓のおかげさまだなぁ。

    涙のようにして、弥陀の音が、響きがあふれ来る。
    そうなったら、いつ死んでもいい、本望だなぁ。
    太鼓の音と響きが、仏そのものになる。

    帰りがけ、笛の女性に太鼓の音を褒められた。
    「何言ってん。祭りのたびに、おめ、へたら、へたらって、言われてってば」
    そう言って笑ったら、
    「いや、うんめなったな」と、ぽつりと一言、出がけに師匠の一言だった。

    泣くにあらず。涙がふれるばかりだな。

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