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from: クマドンさん
2017/09/14 06:30:31
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まだまだ遠い太鼓の稽古
「諸仏の智慧は、甚だ深くして無量なり。その智慧の門は解りがたく入りがたし」
釈尊
さて、太鼓の稽古だった。
行ったら師匠が独り、子どもたちを教えていた。
私は、また改良した太鼓の練習用の符を師匠に見せた。
彼は何度も何度も点検をして、「まあ、いいか」と許してくれた。
私は、やっとお許しが出たと、その符を使って子どもたちに太鼓を教えた。
しかし、ある男の子の時に師匠はやってきた。
「この子は、ちゃんとできるから、これを見せなくていい」と。
そうだなぁと、私は、「今まで通りにやってごら」と、私の作った符を外した。
師匠は、私がどうするかを、じっと見ていた。
次に、私が、その符で、今年初めて稽古に来た2年生の女の子を教えていたら、
「これだと、難しんだ。前の、あれがいい」と、言った。
でも、私は、刃向かうつもりはないけれど、
私の大きな文字の、左手は赤字で色分けした符を使い続けた。
だから、私は、やっつけられるんだと感じながらも。
師匠にとっては、そんな私の態度がいらいらするのだとも想う。
彼には、彼の信念が在り、メソッドがある。
太鼓は、太鼓の音を聴かせて、身体で覚えて叩けるようになる。
それは、本当のことだった。
本物の音は、存在している。
その音を師匠は身体で覚え、私はまだまだその入り口にすら立っていない。
だから、そんな私のことを、何も分かっちゃいないのにと、彼は想う。
しかし、私にも、その本物の音は在る。
子どもたちがとつとつと叩きながらも、
今は、こんなにもよちよち歩きでありながらも、
きっと、絶対、あの音に成る日がやって来ると言う信念が私にもあるからだ。
自分が太鼓をろくに叩けなくても、門前の小僧だ。
私の中にはその本物の音が、響いている。
師匠たちが叩くとき、本当に心が躍る。心地よくなる。
すーっと自在にこころが軽くなる。
それは、本物の音の持つ真実の力だった。
在るのに、それはここには無い。
師匠が叩けば、その音は聴こえる。血沸き肉躍る歓喜、歓喜だ。
とつとつと、おぼつかない太鼓の音にも、
実は、その音を聴こえないが陰で支えているものが、この本物の音だ。
耳だけはいいものを神様から与えてもらった私には、
その音がいつも響いている。
だから、一つ一つその本物に向かってのプロセスを言葉で教えてこられた。
師匠は、本物の音そのものだ。
だから、太鼓を叩かせて、音を聴かせて太鼓を伝える。
私は、初めての子どもたちには視覚的に学ばせたらと、符を改良した。
師匠は、何をやってんだ。これでいいんだと、身体で教える。耳を鍛える。
でも、きっと同じ本物の音を求めている。
「方便」なんだな。
太鼓の音は、仏の教えだ。
いや、本物の音そのものは、仏そのものと言っていい。
ここに、その仏は居る。
しかし、在るけど、無いんだ。
また、みんなの中には、その仏の音が沁みとおっている。
でも、その音を引き出せない。叩き出せない自分が居る。
学ぶとは、やっぱり「真似る」ということだ。
私が、稽古に叩いていたら、あのお母さんがスマホの動画だった。
そしたら、すかさず師匠がやって来て、「代われ」と言う。
私のような未熟者の偽物の音を記録に留めたくない一心だった。
すごい師匠だと、感服した。
そして、何年ぶりかに師匠の太鼓の響きを聴いた。
本物の音だった。
ここにその音は存在していた。
聴こえない音は、師匠が叩けば聴こえる音となる。
そういうことなんだと、改めて腑に落ちた。
私は、師匠の叩く様子を見ながら、身振り手振りを真似ていた。
あの身体の何とも言えない微妙な動き、兼ね合いこそ、この音の源泉だ。
ならば、私は、私を捨てて、師匠そのものにならねばならない。
「守破離」と言うが、離とは、則に戻ることだった。
そのことに、やっと、昨日、私は、気付いた。
私は、大ばか者で、ある時から、「則」を超えた。
まさに、勝手気ままに太鼓を叩き始めた。
これが、これで、実に気持ちはよかったが、
師匠が言った、「クレージー」と。
それでも酔っぱらってその叩き方をやめなかった私。
それをほっておき、直会で「がつん」と、凹ます我が師匠。
ところが、私がかって教えていた高校生以上の子どもたちが、
どんどん本物の音に変わってくのに、
一番太鼓でこれだという音を響かせているというのに、
私は、いつまでたっても、何年たっても、
「だめだね」「なっちゃいないね」だった。
昨日も、凹んだ。凹んだ。
Aさんと言いうもう一人師匠が、稽古の最後に、
私と、昔、私が教えた25歳の若者と二人で子どもたちの前で叩かせた。
「いいかね。みんなも稽古すると。大人みたいに叩けるようになるからね」と。
ところが、彼は本物の音を叩き、私はしどろもどろの音だらけ。
情けないなぁと、子どもたちのために途中でやめるわけにもいかない。
何とか最後まで、叩きとおした。誤魔化し通した。似非の音だ。恥ずかしかった。
そしたら、帰り際に高校生に言われた。
「おじさん、遅れたろ」とね。
本物の音は、存在するんだ。
例え、今、ここで聴こえなくとも、
身体で沁みた本物は、どんなことがあっても無くならない。
そのことを、この太鼓の稽古で実感・実感だった。
駄目だなぁと、夜道の公園の階段をうなだれて登った。
すると、先に帰ったちびすけたちが、「クマさん」と、声をかけてくれた。
似非の音しか出せない私でも、この子たちにとっては太鼓の先生なんだ。
「ごめんな」だったな。
太鼓の音とは、甚だ深くて無量なり。
「習う」とは、「なる」と、観つけたり。
まだまだ道は、遠い遠い。-
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