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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/09/15 06:31:16

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    一大事因縁とは

    「開・示・悟・入」

    如来のただ一つの偉大な目的、ただ一つの偉大な仕事とはいったい何であろうか。
    それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、
    そのために如来はこの世に出現するのである。

    如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、
    またそれを人々に理解させ、わからせるためであり、
    また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるために、
    世尊はこの世に出現するのだ。

    釈尊がこの世に生まれた一大目的(一大事因縁)を一言で言えば、
    「迷える人々を救うため」ということになります。   松原 泰道


    さてさて、昨夜で四日間の太鼓の稽古が終了した。
    私は、その四日間を何とか都合をつけての参加だった。
    二つの合唱の練習をキャンセルして、この稽古に臨んだ。
    それは、それほどの意義と意味とがこの稽古にはあったからだ。

    私は、太鼓を教え、自ら太鼓を叩きながら、仏の教えに気付くことがあった。
    それは、身体で感じ、やっと身体で分かって来たからだった。
    全てのことはここに在る。
    ただ、その真実の響きを、響き出せる者が誰なのかということだった。
    あるのは、イデア・この真実の音である。

    そこに、名人が登場する。
    師匠は、ずっとずっと先人から受け継がれて来たこの音を体得している人だ。
    理屈ではなく、説明でもなく、何が何でもそ音の響きは変わらない。
    いや、変わりようがないんだ。
    不立文字だ。
    教外別伝だ。
    その真実の響きは、如来からの声・音である。

    さて、その音を悟り、体現し、響きをそのまま伝えられる師匠は、
    弟子たちにそれを確かに伝えようとする。
    しかし、理屈ではなく、説明でもないその響きを、
    師匠は、弟子に伝えることに苦慮することが多い。
    何たって私のような出来の悪い弟子もいるからだ。

    師匠は、自分が師から伝えられた、その道程を私にも辿らせようとする。
    私の前で全知全霊で太鼓を響かせ、唸らせ、
    その何か言葉にならない深い深い真実の音を、そのまま悟らせようとする。

    しかし、音とは、言葉で表現する者でもなく、説明できるものでもない。
    いつか、きっと、必ず、自らがその響きそのものにならない限り、
    その音は、その響きは、私自身とは決してならない。
    そのことが分かる。その音の違いも分かる。至らない響きも分かる。
    その全部の音を分別し、より真実の音へ近づこうと努力するうちに、
    「おい、それだよ」という、響きを私が叩きだす瞬間がある。

    すると、響きが、すーっと腑に落ちる。
    響きが、響きそのまんまでここに在る。
    「何だ、あったじゃないか」と、ふと気付く。
    嬉しくなると、歓喜で鼓舞する。
    しかし、直ぐに離れる、その音を出せない自分にすぐ戻る。
    行ったり、来たり。できたり、できなかったり。
    そんな不安定な域にしか、できの悪い弟子は、まだまだ達していなかった。

    だから、修業は、一生なんだな。

    音は、いつもここに在り、「開かれて」いる。
    その音を、ちゃんと真実の響きとして、
    響かせ、聴かせも「示して」くれる師匠がいる。
    その音を分かり、その音の違いを分別し、真実の音だけに近づこうと努力する。
    その内に、その瞬間は訪れる。
    「この音か」「この響きか」が、弟子の小さな「悟り」だった。
    しかし、ここからが始まりだ。
    本当の修業は、ここからだった。
    その音に成り切る。その音であり切る。

    そうなるためには、ただ只管打座、叩き続け、打ち続けるしか道はない。
    これは、まさに以心伝心でしか、絶対に伝わらないものである。
    「こうするんだ」「ここは、このリズムで」と、子どもたちに教える。
    でも、全くそうはならない。
    がちがちの自分の形ややり方や固定観念が入っているからだ。
    だから、その固まったものを解きほぐし、
    まったく真っ白な状態からリセットする必要がある。

    私は、そんな子どもの手を取って、後ろから一緒に太鼓を叩く。
    「力を抜いて」「私のやるまんまにして」「こうするんだよ」と、
    とんとんとと、響きのまんまのリズムを叩く。
    これが、伝えるということだった。
    符はある。音は在る。叩いている先輩たちも居る。
    でも、自分はまだまだ叩けない。

    それは、きっと、強い強い自我や思い込み、こだわりがあるからだ。
    短期間ですーっと習得する子は、やっぱり素直な子だった。
    言われたことをあんまり考えず、
    まず身体を動かしながら身に付けようとする子だった。
    後は、指導者がこの子の癖や特性を判断して、
    どれだけ適切に即時即妙にアドバイスができるかだと私は想う。

    太鼓を教えていていつも感ずる。
    「そつたく同時?」だったけ。
    まさに、「以心伝心」の瞬間の感動だった。

    だから、やっぱり四日間も稽古にクマはやってきた。

    ここまで来たら、もう一度、「開・示・悟・入」の意味を味わってもらいたい。
    それは、太鼓の響きの以心伝心そのまんまだった。
    仏の教えとは、こういうものなんだと、体得・体現することかできた。
    太鼓のおかげさのだ。

    私の一大事因縁は、出来の悪い、へたくそな弟子でありながらも、
    「太鼓を叩けず、迷える子どもたちを救うこと」なんだと、
    如来が私に教えてくれた。

    最後にやっぱり、「悉皆成仏」・「諸法実相」だったなと、言っておきたい。

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