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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/09/26 06:18:02

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    痛みには、大いなる意味が在る

    痛みを通してしか、私は学ばない。
    だから、不意に、ここですかという時に、どかんとやって来る。
    その瞬間には、そのあまりのことに何が何だか分からなくなり、
    気が動転し、どうしてわたしなのかと、怒りや恨みも湧いてくる。
    でも、よくよく考えれば、
    その痛みは、私のためだけに与えられた痛みだったことが分かる。

    必然だなぁ。と想えるかどうかだ。
    不思議だなぁ。と感じられるかどうかだ。
    そう想い、感じられると、そこには「意味」があることが分かってくる。
    そうなるようにしてなさせられていた私とは、
    そうなるようになさしている何かの働きを感じている私だった。
    その「働き」を信じられるか。
    その目には見えない、音にも聴こえない、そんな意志や働きを、
    その痛みの中で体感し、自覚することができたら、
    その痛みとは、恩寵であり、感謝すべき一方的な愛でもあった。

    そんなことはあるわけはない。
    そう想っていた私は、今は、そうだったのかと、納得する。
    それは、ここに到るまでには数多の痛みと苦しみと挫折とがあったが、
    今、ここに、私は、生きている。
    いや、そうした苦難を経てこそ、
    こうしてここに生かされている喜びと感謝を感じているからだ。

    この夜中に、不思議な、不思議な夢を見た。
    まさに、その夢は、与えられ、それを味わうことを試されていた夢だった。
    その味わい、感じ、考えているプロセスで、
    何だか「分かる」が「分かって来た」予感を感じた。
    ある私の意識は、その体験する私を、そうなんだと見つめ、考えていた。
    つまり、体験する、体感して変化して行く私を、私は見守っていたのだ。

    そのことは、いつか、もっと確かになったらここに記したい。

    さてさて、この痛みから学んだこととは何かだ。

    私は、はっとした。
    人生の優先順位をどこかで私は取り違えていたのではないかということだ。

    何よりも、教会の礼拝だろう。
    遅れて行ってみて驚いた。
    韓国からいらした女性宣教師 李先生の特別伝導集会だった。
    それで、駐車場が満車だったんだ。
    とてもとてもいいお話しだった。これは、私のための語りでもあった。
    「奥さんを尊敬しなさい」「私は、あなたのことを尊敬しています」
    そう声に出して言いましよう。
    そうだなぁ。彼女がいなかったら、我が家はどこにも存在しなかったな。
    彼女が、本当に全部の苦しさを担いながら、歩いてきてくれたから、
    今日、こうして、家族で生活できるんだな。だ。
    御言葉は、命だ。
    御言葉を、深くで味わう。

    次に、家族のことだった。
    どんなに酷い父親であっても、こうして一緒に暮らしてくれる。
    黙っていても、やっぱり、お互いに心の支えとして感じ合っている。
    何も言わなくても、何もしてあげられなくても、
    こうやって一緒に生活できるのは、家族だけだ。
    夕食に次男の希望した「スシロー」に行って、みんなでの食事だった。
    嬉しかったなぁ。
    私は、家族でいることの幸せを味わっていた。

    それから、地域の家族のことだった。
    お年寄りたちへの見守り訪問を行った。
    「ごめんください」「お元気ですか」「何か困ったことがあったら言ってください」
    そう言って30件近くのお宅を回った。
    回っているうちに、心の重荷やわだかまりが溶けていくことがよく分かった。
    それは、迷惑そうな人もいないではないが、
    何だかほっとする笑顔で、感謝の言葉をかけられて別れると、
    「ああ、行ってよかったな」「今度は、いつ訪ねようか」と心がほっと温まった。
    人の痛みと孤独を味わう。

    教会にも、本当は私が果たすべき役割がある。
    家族には、感謝はされていないかもしれないが、私の責任は確かにあった。
    地域社会においては、天から与えられたこの仕事を全うすることだろう。

    私は、私のことなんぞ先に考えてはならないんだな。
    「すべてをお委ねします。お任せします」と言っておきながら、
    それはないよの必然の痛みだった。
    授業料は高い方が、いい先生といい学びとに出会うものだ。

    さてさて、おかげさまで目が覚めた。
    あの太鼓の師匠のように、本気の言葉は、厳しく、痛いものだった。
    しかし、厳しくも、痛くもなければ、私のような愚か者は、目を覚まさない。
    神様は、そんな塩梅をよくよくご存知だった。

    本当に人とは、いかに死ぬかを学ぶために、この世に生まれて来たのだと私は想う。
    その人の死にざまが、その人の生きざまだ。
    何を形見と次の人たちに遺していくか。
    それは、人生を諦めず、やっぱり人として闘って、
    生き抜いた姿ではないかと私は思う。
    「ああ、クマは、ああ生きて逝ったな」ってね。
    そんな生き方を、ちゃんと神様は応援している。
    だから、怠けたら、拳骨なんだな。

    それだけ、私は、神様に愛されている。
    そのご恩を、やっぱり誰か隣人に返すべきだろう。
    その「働き」こそ「私を動かす働きの意味」なのだと、
    この痛みを通して学ぶことができた。

    夜中に不思議なことが私に起こった。
    本当にそれは声無き声の私への呼びかけだった。
    深い深いそこの扉が開かれたようだった。
    やっと「生まれた」んだな。

    今は、その私を、じっと味わっている。

    「一隅を照らす人 その人こそ国の宝だ」  法然上人

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