新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークル内の発言を検索する

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2017/09/30 06:46:33

    icon

    在ること・考えること・喜んでいること

    在ること・考えること・喜んでいること。

    当たり前を、ただ当たり前に生きる。

    今日がある。在り難い。

    仕事がある。在り難い。

    何だかね。私は、やっぱりそれを忘れていたな。
    いや、そうありたいときっとずっと私は願っていた。
    でも、その願っていた私ではなくて、
    どこか我がままで、自分勝手で、人の心を感じられない私が、
    きっと生きていたのだと、ある時から想い始めた。

    混沌だ。
    どう生きたら分からないどん底だ。
    何だかすべてを失ってしまったような喪失感と挫折感だ。
    そんな混沌をそれこそ、幾度も幾度も過ぎて来た。
    この「親父たちよ」は、その足跡に過ぎない。
    しかし、そうやっても、ここで、こうして生かされている。

    落ち着くと言う言葉通りに、
    私は、俺だと言う自意識の荒波から、その水面から沈没し、
    ずっとずっと無意識の阿頼耶識に沈みつつ、
    そして、老いと衰えと共に、
    とうとう何だか、「底」についたのかもしれないと感じている。
    それが「落ち着く」という感じだ。

    ここには、私が居る。
    その私が、私のままで生きてくれる。
    余計なことはしない。悩まない。くよくよしない。後悔しない。
    何だかそんなこだわりの私を脱ぎ捨てる。
    「どうでもいい」し、「いい加減」でもいい。
    自他の区別なしだ。

    開かれた私は、空っぽの私。
    空と風と雲とお日様と一つ続きの、がらんどうの私。
    ここを風が通り抜ける。
    すーっと空っぽだから、空とおんなじだ。

    在るとは、そういう感じのままに息をしているということ。
    ただ、在ればいい。
    しかし、小さなさざ波がいつもいつも生まれて来るのも自然な姿だ。
    だから、ほっておくことにしている。
    全ては、時間が融かしてくれるからだ。
    時間に委ねる。
    それは、私のかかわりではないこととして、忘れることにする。
    とどまらない。流れるままにする。消えていくのを、ただ待っている。

    在るとは、そうした心の所作・諦めではないだろうか。
    委ねる・任す・そのまんまにする・まぁいいか・どうでもいいだな。

    でも、いつも考えている。
    「悩むな。考えろ」by池田晶子さんだ。

    生きるとは何かを、やっぱり考えるために人はこの世に生まれてきている。
    知恵とは「いかに生きるか」を考えることで、私の中で育つもの。
    やっぱり仏陀の言うように、「人間を完成しなさい」「修業しなさい」だろう。

    人は、人の中で育ち人となる。
    だが、どんどん人になるにつれて、浅い愚かな人となったとしたら、
    それは、きっと何かの間違い、勘違いだろうと私は想う。
    人は、きっと「深い人」「いい人」になるために、この世に生を受けたはず。
    だから、どうやったら「深い人」「真人」「主人公」になれるのかを、
    絶えず、自分に問うて生きることが肝心・肝心だ。

    ソクラテスは言う。「魂のお世話をしなさい」と。
    身体のことは眼に見えるから養生をする。
    しかし、本当はこの目には見えないが、私として存在するこの魂を、
    しっかりと確かに感じ取り、その魂こそを養生すべきなんだ。
    いや、その魂から養生されるべきとでも言おうかな。

    そろそろ、人生をしまいにする頃が来たのだから、
    その私に主人公になってもらい、私は潔く勇退すればいい。
    そしたら、きっとのほほんと、生きられる。

    その時、きっと「いつでも喜んでいなさい」のあの喜びに満たされることだろう。
    深い人は、深いものと繋がっている人だ。
    きっと深く聴く人であり、深く感ずる人でもあろう。
    その人は、深く祈る人でもある。

    そして、その人はきっと言葉少なで、いつも笑顔の人でもあるだろう。
    その人は、まるで良寛さんであり、賢治さんのような人なんだ。
    「そういう人に、私はなりたい」と、想って行えば、
    その人は、きっとみんなのことを先にするから、
    自分のことなんぞ数の中にも入れていないから、
    人のために東西南北奔走できるのだろう。

    人の痛みや悲しみを、自分の痛みや悲しみと感じ、
    おろおろとしたり、涙をぽたぽたと流したりする。
    そんな人は、きっと、やっぱり、馬鹿だなぁと言われるだろう。
    「あいつは、損ばっかりしている」
    「人のことばっかりで、自分のことを一切かまわない、馬鹿なやつだ」と。

    でも、やっぱり「木偶の坊」になりたいものだ。
    人は、人で、それでいい。
    私は、私で、木偶の坊を目指す。木偶の坊を生きる。
    やっぱり一人ぐらい、そうして生きている見本が必要なのではないだろうか。

    私の見本は、イエス様であり、仏様であり、良寛さんや賢治さんだ。
    太鼓や笛の師匠から習うのとおんなじだ。
    見よう見まねとはよく言ったもので、
    師匠のようになりたかったら、師匠よーく見て、そのまんま真似をすることだ。
    その太鼓の響きを身体で聴き、笛の音を身体に染み渡らせる。
    それができで、その「則」ができて、初めて習うことができる。
    どんな姿形を私の師とするか。
    きっと、そのことで私の人生は決まるのだと想っている。

    私は、師匠の辿ったこの道を往くことを決意した。
    ただ、それだけ。

    だから、今は、笛を習っている。
    「煩いからやめろ」と言われても、私は、やめない。
    この深く深くで聴こえる笛の音を、
    私自身の笛の音とするまでは、
    日々、是精進だ。

    「病床にも山野あり」

    だから、「日々是好日」と生きたいものだ。
    今日も介護職員の初任者研修がある。
    一日、素直に習う人に徹する。

    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件