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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/11/15 06:23:50

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    内なる促し・・・自由

    言葉は、どこにあるのか。
    こうして考えている時、私は言葉で考えているのか。
    それとも、その言葉が生まれる寸前の気付きが言葉となるのか。
    考えるは、言葉なのか。
    それとも、言葉がなくても、人は考えられるのか。

    私は、振り返ってみたら、何だか考えて決めている前に、
    何か知らないが内なるものの促しや、衝動で生きて来たような気もする。
    いろいろとやってきたことを考えてみると、
    それって、そうやろうと決めたから実行したことには違いないが、
    そうやろうと想ったり、アイデアが浮かんだりする瞬間とは、
    私ではなく、何だかそうなることに決まっているんだという、
    何か内なる確信・うながし・はたらきによって、
    そうなって来たような気がするからだ。

    これがあったから、これがある。
    世の中はこうなっているから、そうなるべきだ。
    そうした理屈や常識は、自分でも少しは分かっているつもりだが、
    でも、どうして、いつも、それを越えて、
    そうだから、そうではないものを求めて、こうして生きて来たのか。

    その促しに従って生きて来たつもりの私は、
    その促しが、はたらきがいったいどこから来るものなのか、
    改めて考えると不思議なんだな。

    クリエイトな存在が、人だと想う。
    クリエィテブな生き方をしているときは、人は喜びを感ずるものだ。
    同じことの繰り返し、単調な日々であろうとも、
    何かほんの些細な発見や、自分が為した仕事の成果があれば、
    それだけでその一日は満足な一日となる。

    そのクリエイトの出所が、いったいどこなのかという問いだった。

    ここで、私は、言葉を失う。
    いや、常識的・慣用的な言葉の意味や、使い方を失うと言ったほうがいいかな。
    その言葉にとどまっている限り、
    その言葉の制約と決定していると想われるその意味自体に縛られる。
    そこで、落ち着き、諦め、従容と考えることをやめて生きる人も多い。
    そうなっているんだから、仕方ない。
    その人たちは、言う。

    でも、本当は、その人の内からも、
    何か大いなるものからの促しや呼びかけが、きっとあるはずだ。
    そこが、人を人としている普遍的・共通的な部分なのではないだろうか。
    言葉にしてしまうと決定事項となる。
    その決定事項にただ従うことをよしとしない人たちは、
    やっぱりその言葉を産みだして来たはたらきを信じで、
    まだまだ言葉の萌芽も生まれない、その刹那に、
    何か期待して、何かを賭けているのではないだろうか。

    ある哲学者が言っていた。
    「神は居るか。神は居ないか。君はどちらに賭けるか」と。
    「もし、居ないと賭けたとしたら、死んで神と出会ったらどうするのだろうか」と。
    還暦になり、さまざまの失敗と試練を経た今は、
    この言葉の深さと重さを理解できるようになった。

    親鸞の言葉にもある。
    「法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても本望だ」と。
    私も、そう想う。
    私は、神の存在を信じて、それに賭けているからだ。

    そうすると、この促しやはたらきの意味を、
    少しは理解できるようだった。
    「在る」のは、「これ」なんだ。
    「呼びかける」のは、「この無声の声」なんだ。
    「何を」は、「私」が決めることではないんだ。
    「その声」を聴いたなら、「その声に聴き随う」
    そのことが、自由ということだった。

    自由とは、言葉になる前の刹那の生き方だ。
    その「言葉」は、その自由な発想を生きて、
    その促しを、姿として「現した」時に、初めて確かに存在できる「言葉」になる。

    何を言いたいのか、自分でも分からなくなったけれども、
    言葉を信ずる前に、まだ言葉にならないままの気付きや促し。
    そのうちなる「はたらき」「よびかけ」を信じて生きることが、
    本当は大事な生き方だったんだと、還暦の私は、そう想う。

    道とは、私がどうのこうのと戯言を言わなくても、在るものは在るんだ。
    その道は、ずっとずっと私の父や母が生まれる前からここにある。
    その道を人は歩きながら、その道を探し回っていた。
    その道があまりにも途方もなく広く、端が見えないからだろう。
    だから、人は、生まれてから死ぬまで一度もその道を踏み外してはいない。
    迷うなんてことは、微塵もないのだ。

    迷わない。
    これでいい。
    私も人も、この道のど真ん中を歩いている。
    そのことを、信じられるようになったから、自由になったな。

    何かね。
    私が先では、全然ないんだな。
    使い古された「言葉」に騙されないことだな。
    「そうなんだ」と、勝手に決めないことだな。
    その瞬間、確かに眼がくらんで、
    どこをどう自分が歩いているのか分からなくなる。

    でも、その時なんだ。
    「お願いします」「助けてください」「お任せします」
    すると、その途端に目が開く。
    だから、お任せしたまま、安心して、今日一日だけを生きている。
    そこに、本物の信心がある。

    何も考えずに、書き始める実験だ。
    それでも、ここにたどり着く。
    やっぱり、みんなど真ん中を生きている独り独りなんだな。
    きっ「分け与えて」もらえたら、
    私たちが知りたかった生きるの意味が「分かる」のだと想っている。

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