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from: クマドンさん
2017/12/06 06:34:26
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問いが示す道とは
さてさて、不思議だなぁを生きる。
何だか、そう想えるようになってきている。
それは、歳をとったおかけだろうが、
本当は、いっぱい愚かなことをしでかし、失敗を重ねたせいかもしれない。
どん底は、きっとある。
でも、どん底に堕ちながら、もうだめだと観念しながらも、
いつの間にか助けられていることばかりだった。
人間は、堕ちきることはできないようだ。
真っ暗闇に真っ逆さまに突き落とされても、
いつの間にか、ここに居る。
気付いたら、ここに居た。
よくよく考えれば、それはそうだと、今は想える。
これでもか、これでもかの試練や、逆境は、
ヨブ記にあるように、これまた神が与えられたものなんだな。
つまり、その苦しみ、その痛み、その哀しみ、その後悔も、
全てよしとして許されて与えられた恵みでもあった。
そのことに気付けたから、
きっと、ああ、人とは、どんな状況にあろうとも、
不思議を生かされていると感ずるんだな。
しかし、生きていればこその話。
そのドラマの結末や新たなる展開はその後から始まるのに、
その応えを観ずに、早まって命を絶ってしまったら、
何とも生きている意味からすれば、もったいない話だとも想う。
確かに死にたいと想ったこともある。
そう想ったことが無い人は、居ないのではないかとも想っている。
でも、本当は、そこからの問いによって、
本来の生きるとは何かが始まるのだ。
しかし、その答とは、やっぱり長い長い孤独なる旅路の果てにだけ、
きっと与えられるものだとも想ている。
だから、「孤独」でいいんだ。
「独りぼっち」でいいんだし、
「苦しみ」があってもいいんだし、
「辛さ」や「哀しさ」もあっていい。
そこを経ない限り、腑に落ちない真実が、
必ずそこには存在するからだ。
苦難の中にある人とは、ある意味、選ばれた人であるのかも知れない。
その苦難を経ない限り、その痛みを体感しない限り、
まだここに現れていない、でも、ちゃんとここには存在している何かが、
その人に体感されて、姿を現すことができないからだ。
だから、そのことを与えられたものとして、選ばれた者として受け入れる。
覚悟する。腹を据える。感謝する。それだけで生きる。そのことを生き抜く。
これがなかなか難しいことだが、
生きるとは、そこから逃れようとしたり、
もっと自分だけでも楽に生きたいと想ったりしては、
何だか大事な生きることを味わわないで、死んでしまうような気がしている。
哀しみの人。憂いの人は、深い人だ。
そんな深い人になることが、善く生きることではないだろうか。
人はみんな、呼ばれて、ここに生かされている。
呼ばれているのならば、その呼び声に耳を傾けることだ。
微かどころか、その声はずっとずっと沈黙をしている。
黙っているその声を、心で聴きとどける。
それが、生きることを通しての、天との応答ではないだろうか。
自然に生きているいのちは、全て「仏のいのち」だと仏教では教える。
それは、神が与えたいのちであるというキリストの教えとも同じことだ。
その「いのち」をどう生きるか。
その「問い」は、いのちからの問いである。
そして、私が分かったことは、
問いには、答えが必ず存在しているということだ。
いや、問うことそのものこそが、応えなのではないだろうか。
素直に従えるか、どうかなんだ。
私は、その問いを死ぬまで、ここに持ち続けたい。
そして、その問いを与え、見守っている神を信ずる。
ならば、生きねばならない。
半年かかったある仕事が、昨日、完成した。
静かな喜びだ。
そして、その仕事と出会わせてくれた、
亡くなったある人に心から感謝した。
生前にお会いできなかったことを残念に想うが、
この仕事のために私は、あそこに呼ばれたように感じている。
問いは向こうからやって来る。
ただし、誰にでもやってくるものではない。
問いに選ばれたなら、腹をくくり、やっぱり素直に従って、
その問いの指し示す道を、信じて歩くことだと、
昨日、改めて私は想った。-
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