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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017/12/10 07:23:03

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    Sさんへの手紙

    さてさて、生きてみないと分からない。
    ああ、そういうことだったんだなと、
    何だかもう知っていた想っていたことに、初めて気付く。
    この歳になって、
    当たり前のことに、気付き、驚き、発見する。
    不思議だなぁと、ただそれでけで生きている。

    生きてみなくちゃ、分かりませんでしたね。
    本当にそうだ。
    途中で亡くなってしまった人たちには申し訳ない。
    この人生の味わいは、結構、深い深い味わいだった。
    そこのところに至らないと、
    この味を体感することができない。
    だから、迷いと苦しみと切なさにある若い人たちに声をかけたい。
    そこじゃないよ。
    もう少し、我慢して先に行ったら、
    きっと何かが分かる日が来るよって。

    小千谷のSさんと、聖籠に向かう車の中で語った。
    何だかね。
    人って、何かの現れなんではないでしょうかねと言う語りだ。
    何かを現す。顕わにする。そのことが、人の使命じゃないですかね。

    音楽であり、絵画であり、舞踏であり、造形であり、
    何か現れようとする働きに呼ばれて、
    突き動かされて、やむにやまれずに創りだす。
    それって、この世に生まれた人たちの役割なんじゃないですかね。

    そうすると、言葉って、とてももどかしいんですね。
    どうしても、言葉に置き直すと、書き留められない、
    表現できない部分が必ず出て来る。
    もっとダイレクトに、直接的に感じたものを現すありようは、
    やっぱり感覚に直接的に訴えるものなんですね。

    そんな話だった。
    無声呼人という書が、森田さんの「山小屋」に飾ってありました。
    私は、やっと60歳になって、その意味が分かりました。
    人はみな、その声無き声に呼ばれている存在なんです。
    でも、感性と言うか、その人の人間性と言うか、
    その声は、無心、つまり心が無くならなければけっして聴こえない声なんですね。
    でも、その声は、ずっとずっと途切れたことは無かったんですね。
    それは、ずっとずっと私のことを、
    深く深くで呼び続けてくれていた声でした。

    やっと、その声が、聴こえたような気がしています。
    人は、その声に呼ばれなければ、きっと何事も為し得ないようです。
    何かを行う。または、何かを行いたい。
    それは、その人の想いではなく、きっとその声の主の想いなんですね。
    呼ばれた人だけが、そこで為しうるものがありますね。

    無にならないと、無を生きられません。
    無という言葉が在るということは、
    無がここに在るということですよね。
    だって、存在しないものに対して、
    どうして名前をつけられるでしょうか。
    名前の在るものは、在るものだけです。
    だから、無は、ここにあります。

    でも、気付いていない。
    不思議なことですが、無で在りながら無であることを自覚していない。
    だから、その呼び声は聴こえて来ません。
    するとですね、神はどかんとその人が無にならざるを得ない試練を与えます。
    突然、何の前触れもなく、一瞬で、その人の世界を一変させます。
    私の生死がそれでした。
    あれからですね。
    無なんだな。ちっぽけなんだな。生かされてるんだな。
    いのちとは、自然のことなんでな。
    そう想えたのは。

    すると、あの花や木々や虫たちや鳥たちが生きているなら、
    きっと私もその自然な存在の1人として、
    ここできっと生きていける、いや、生かされて行くだろうと、想えました。
    生きているのは、私ではありません。
    きっと、私である吾が、ここに生きているのです。
    吾は、ずっとずっと生きていました。

    その吾は、きっと我々の、我でもあります。
    吾は、我なんですね。

    「いのちのたね」の人たちの語りを聴きながら、
    私は、語るという言葉の深い意味を知りました。
    語るとは、その「吾」が言っている言葉です。
    その「吾」は、相手の「吾」と呼応する「吾」です。
    私の「吾」と相手の「吾」とは、根源的に同一の吾です。
    だから、その「吾」とは、「我々」の「我」なんですね。

    だから、魂の深くで共感し、共振し合うことができるんですね。
    不思議ですね。
    吾に還ると、私は居なくなります。
    その吾は、きっと我々の我となります。
    「自分のためにする」が結論だったと思います。
    私も、その言葉に共感・共振です。
    今、一つの考えが組織と言う得体の知れないものによって、
    まったをかけられています。
    組織・体制・きまり・役割を明確にしてからは、
    絶対に動きだせないことは、私には分かります。

    でも、自分のためと言いながら、
    その自分とは、「我」であったら、
    その行われたことそのものは、「みんなのため」になることです。
    そのことは、間違えの無い事実です。
    だから、笑顔で「自分のために」と言えるんですね。

    前人とは、そういう人ではないでしようか。
    「前人植樹 後人涼」
    この言葉は、真実です。
    この前人こそ、全人であり、吾であり、我なんですね。
    その人になれ、です。
    まず、誰かが木を植えなければ、森はできません。
    木を植えた人が居たから、木陰ができます。

    私たちは、呼ばれていたんですね。
    「木を植える人になれ」と。
    Sさん、私たちは、木を植えて来ました。
    人は、その木を忘れても、木はその人を忘れませんよ。
    そこに、きっと私たちのことを待ち、見守っている眼差しを感じませんか。
    Sさんと、私が、この世を去っても、
    その樹々は、見事にここに生き続けます。
    そして、種を残し、いのちを繋ぎ続けます。

    森には、森の想いがあります。
    森には、森の気があります。
    私たちは、その想いを想い、気を感じてきたから、
    森に導かれていたのではないでしようか。
    Sさんも、私も、森に呼ばれていたんですよ。
    きっとその働きかけに促され、
    あの時、あの場所で、森を顕わにさせられたのではないでしようか。

    そのことが無かったら、
    私とSさんとは、出会えなかったし、
    昨日出会った懐かしい人たちとの出会いもありませんでした。

    不思議ですね。
    でも、やっぱり歳をとってよかったなぁとつくづく感ずるのは、
    この不思議だなぁに目覚めることが出来たことです。
    私がやっていることではありません。
    私が生きているのでもありません。
    きっとこれからは、「吾」である「我」が、
    私に呼びかけ、そのまんまに、ただあるがままに、
    そうやって自然体で生きていけば、
    その生き方が、きっと無声呼人の生き方なんですね。

    「前人植樹 後人涼」
    Sさん、あの森でどれだけの子どもたちが涼したことでしょうね。
    前人のことは誰も分からなくていいんですね。
    でも、森は生きて、今も、ずっとこれからも、
    子どもたちの心と魂を愛で、涼してくれていますよ。

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