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from: クマドンさん
2017/12/18 06:06:04
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顕わにすることこそ
歌うこと。
合唱祭のステージから、歌を歌った。
歌は、私の感情を顕わにしてくれる。
その言葉が現す、その感情そのものとなって声で表現する。
「想いだけしか伝わらない」
それは、演劇の舞台も同じだった。
歌で、想いを伝える。
だから、伝えられた観客は、その想いに感動し、共鳴し、共振する。
その瞬間、震えたものこそが心だった。
心は、姿形はなくても、やっぱりこうして顕わになっていく。
「ふるさと」を歌いながら、涙が溢れた。
熱いものが内から込み上げて、どうにもならなかった。
「泣いてはいけない」と、自分自身を抑えて歌った。
私ではなく、その心である私が、感じて、動いた。
舞台の上に立つということは、
そうした心そのものに自分を委ね、感じたままに任せ切ることだ。
自分が、自分がと言って威張っている間は、
その心が、純粋に顕わになる隙間がない気がする。
まさに、マエストロの想いのままに、自分を忘れる。
その心とその表現・表情とは、
その指揮者とピアニストとの音に委ね、そこに自分を忘れる。
そうやって歌う時、私は、私を超えて歌う。
その指揮者の表現しようとするそのパッションを、
そのまま感じ、息を同じにして、身体を動かし、一体となる。
彼が歌いたいようにして、私が歌う。
彼が音に託したい感情を、私が声と言葉とで表現する。
それは、まさに、今、ここだけで現されるものだった。
全ての音は、消える。
その在ると消えるの刹那に、その音は音として存在する。
音が音楽になるということは、
そこに意味が顕わにされるからだった。
意味がある音は、音楽となり、聴く者の心に響く。
忘れると、そのものに成れる。
自分を「空」にすると、現れるべき音が音楽として顕わにされる。
舞台では、神が降りてくると言う。
それは、真実の出来事として、私は体感したことがある。
音楽も同じだった。
「空」であり、「無」でなければ、
その「在るもの」は、けっして顕わにはならないものだった。
ホールの一番奥、最上段近くに座った初老の女性に、声を届けた。
指揮者が言うように、目線をその人に留め、
その人たちに歌うつもりで、全力で歌った。
みんなのハーモニーの中に融け込む時もあり、
思う存分に自分の声を張り上げる時もある。
それでも、伝えたいものは、想いだった。
人には、こうして自分を「無」にして、
何か向こうからやって来るものを、
顕わにする、表現する喜びがあるのだと、改めて想った。
人とは、顕わにする人なんだ。
そうでなければ、本来の心とは、決して出会うことがないだろうと、
ステージで歌って、感じた。分かった。
顕わな人となる。
それが、私の生き方だ。
しかし、一体何をどうやって顕わにするのか。
それが、私の日々の生き方の修業となっている。
独りでいい。独りがいい。
人を気にして生きるのではなく、
その心に呼びかける声無き声を聴き、
その声が示す生き方を、そのまま、自分を「無」にして顕わにする。
そのことが、まさに「主体変容」ではないだろうか。-
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