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from: クマドンさん
2018/01/13 13:13:05
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「分かる」より「感じる」へ
凄い雪になった。
この窓から見える景色も真っ白だ。
膝の下まで積もった雪だ。
ここは、新潟市東区である。
平年の10倍の80㎝の積雪量だと言う。
降る時には、降るもんだ。
人間の予測を遙かに超えた所に、自然は在る。
昨日の朝は、前夜に徹夜での除雪のおかげで、
路面がフラットで、ストレスを感じずに走ることができた。
ありがたいことだと、感謝、感謝だ。
その帰りは、今度は路面に凹凸が残り、
ぐらぐら揺れること、揺れること。
しかし、あの大雪で2時間かかった吹雪の日を経験しているから、
こんな道、何のことはないと無心で走った。
ぐらりと横に振られても、せいぜい数十㎝だ。
ということは、隣に並走する車がいないのなら、
30キロで走っても大丈夫、大丈夫。
前の車の振れ幅を見て、私もスピードを出して運転できた。
これもやっぱり経験知だった。
考えていることより、まず試してみることだ。
おじける前に、ちょっとだけ挑戦してみようかな。
おかげで、雪道の走り方を、この歳でマスターできたようだ。
自宅に帰ると、車庫の前の雪除けだった。
車二台分の幅を、せっせとスノーダンプで、雪除けする。
腰を痛めている身には、とてもとても辛い作業だ。
だから、急がない。ゆっくりとやる。丁寧にやる。
除けた雪が積まれて行くと、何だか嬉しくもなる。
雪除けのいいところは、努力の跡がしっかりと見えることだ。
私は、すっきりと雪除けしないと気が済まない性分だ。
だから、きれいに下の道路の路面がでるまで削ぎ、除ける。
それから、近くの本家の独り暮らしの叔母さんの家の玄関と、
その他に、独り暮らしの人の二件の
家の玄関の雪除けをやった。
汗をかき、三件をきれいにしたら、達成感を感じた。
そして、この雪に閉ざされて生活を、
どんなに困っているお年寄りが多いかを想った。
後十年もすると、私がその一人になるらしい。
雪除けは大変なる重労働だが、
それを雪国の人たちは、毎日のようにやらねばならない。
雪下ろしと言う土地もあり、雪堀りという土地もある。
これが越後の人たちの冬の暮らしであり、文化でもあった。
そして、忍耐強く、我慢強く、春をじっと待つ気持ちを培ってきた。
自然風土こそ、人の魂を育てる、大事な土壌だ。
風土によって、人は育てられてきた。
こうしてどか雪に囲まれていると、
雪の下で暮らす自分を、改めて想う。
どう生きるのかは、自然からやって来る試練によって、
教えられるようである。
松が、その幹の肌で息をしていた。白い息を立ち上らせていた。
ああ、松もじっと耐えているなぁ。
ムクドリが、南天の赤い実を食べに来た。
ああ、生きるためには、食べないとなぁ。
自然のいのちは、この大雪の中で、それなりに生きている。
そんなものは、そのまんまに受け入れて、何も悩まず。
無心がいい。
そうすれば、思い通りにならないと、腹を立てることもない。
昨日は、つくづく人間というものが嫌になった。
久しぶりに私は、本気で怒りを感じ、ペンを持つ手が震えた。
「馬鹿野郎」と怒鳴りたかったが、ぐっと堪えた。
そして、悟った。
言っても無駄な人には、言っても無駄だと。
そしたら、黙って言いたいことを、聴いていたらいい。
そこで、感情を乱したら、つまらないんだからと。
どうにもならない人は居る。
でも、その人とは、いつも自分が正しいと想っている人のことだ。
だから、そのどうにもならなさには、一生気付かないことだろう。
仕方ないんだ。そういう人は、確かに居るな。頭のいい人が。
そんな人の存在の確認ができただけでも、勉強にはなった。
それでも、腹が立ったままだったので、吉原に飲みに行った。
飲んだ、飲んだ、二合徳利4本かな。
家に帰って来てからは、妻に話し、菊水を一本飲んでいた。
相当私は酔っていたらしい。
それでも、ちゃんと布団をしていて、眠っていた。
朝、晴天だった。
青い空とお日さまの輝きだった。
あんまり気持ちよかったので、カメラを持って散歩した。
大山台の塔に昇ろうとしたら、先客がいたのには驚いた。
しっかりと雪の中に足跡のトレースだった。
私と同じ物好きがいるらしい。
さてさて、その真っ白な新潟市東区と中央区だ。
もう、頭のいい人たちの話を聴かないことにした。
もっと目の前に起こっている変化に気付き、
そこに意味を感じられる人と話そうと心に決めた。
頭のいい人たちは、こうだと決め込んだことからは、抜け出せない。
だって、自分がこうだと決めたことしか正解はないからだ。
私は、変化を楽しみ、変わることに期待する。
頭のいい人たちは、「分かる」と言う。
私は、「感ずる」「味わう」と言う。
すると、「何だそれは。」と叱られる。
何でこんなことが分からないのだと、指導される。説教される。
ぜんぜん私はそう想っても、感じてもいないことを、
「あなたはこうだから、それではだめだ」と、決めつけられる。
そう言われても、ぜんぜんそう想わないから、仕方ない。
すると、頭のいい人たちは、もっともっと腹を立てる。
「何で、私の言った通りにはしないのか。」
「いいですか。分かりましたか。」だ。
私は、そうすると間違った方向に行ってしまうのになぁと考えている。
だから、言われた通りに、できるわけもなく、するわけもない。
そうして、私は、徹底的に嫌われる。悪口を言われる。批難される。
私を知らない人たちは、その話を聞いて、
きっと私をそういう人だと想うだろう。
私は、そんな人ではないのに、そんな酷い人にいつしかなっている。
「分かる」ひとたちがやることだから、私は諦めている。
だから、今朝、雪の庭を観て、ぼぉっとしながら、
もう、「分かる」って言葉は、絶対に使わないことにしようと決めた。
「分かっている」と言っている人に限って、何も分かってはいないんだな。
「分かる」という「誤解」「勘違い」をしないためにも、
人は、人のことは絶対に「分からない」のだから、
あなたはこうだと、分かったように人のことを決めつける、
愚かな人にならないために、
「分かる」はもう使わないことにする。
やっぱり、「感ずる」「気付く」「味わう」でこれからは生きたいと想った。
そしたら、新聞の書評で養老猛さんの「遺言」に、
この「分かる」と「感じる」について書かれてあると知った。
「分かる」ことで、人は生物がもつ感覚をないがしろにして、
どんどんと破滅に向かって突き進んでいるとのこと。
そうなんだよな。
分かるという人たちは、変わってもらっては困る。
私の言った通りに、決めた通りにしなさいしか、
道は存在しないからな。
そして、絶対に後戻りしないんだな。
だって、言ったことが間違っていたとは、認めたくないからね。
私は、松が水蒸気を吐いて息をする様子を見ながら、
独りでも居られる人になりたいなぁ。
こうして、自然の中で落ち着ける人になりたいなぁと、想っていた。
私の周りには、本当に頭のいい人たちが多いんだな。-
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