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from: クマドンさん
2018/01/14 08:12:23
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暴君の教えることとは。
とてもとても腹が立って。
想い出す度にもいらいらとしてしまう。
音楽を聴いても、本を読んでも楽しめない、味わえない。
金曜日のことを想い出す度に、何だか怒りが湧いてくる。
一方的な全面否定だった。
実際に目の前に起こっている事象も、変化も、成長も、
その人には目には入らない。
ただ、今日は、子どものお使いのように、
こう言って下さいと頼まれたことを言うだけに、ここに来た。
そして、ずっとずっと私ができないこと、
やったはいけないこと、間違っていること、こうすべきこと、
ただただそのことを喋り続けた。
こんな人も、生きているんだ。
それも人を指導する立場の人だ。
人間としても失礼ではないだろうか。
私のことを否定するために、そのためにだけやって来た人。
そう言いなさいと言われたことだけを、しゃべり続ける人。
人とは、こんなにも情けなく、哀れで、愚かな存在なんだ。
しかし、それは、私自身でもあったと言うことだ。
私も、どこかで、同じことをしていたのではないだろうか。
一方的に、相手のことを認めず、否定したり、批判したりしていなかったか。
そして、やっとそうされたときの、その怒りと不信感と諦めとの感情を、
その人によって感じて、理解することができた。
訳もなく、誤解によって、一方的に否定されることとは、
こうした怒りを産み出すことになると、
喋り続けている本人には、けっして理解されないことだった。
その人は、自分が正しく、私の愚かな間違いを正そうとしている。
本心からそう想っているから、
こんなに否定的な、相手を傷つけるような言葉も平気でしゃべれる。
この人は、何の為にこんなことをわざわざしゃべりに来たのだろうか。
そして、その人は、どれだけ私が怒っているかも感じられない。
臨機応変。
その場、その時、その瞬間を感じて、
話し方や内容を変えることはできない。
書いて来たもの。
自分でこうだと決めつけたもの。
それだけを、ただしゃべる。
それを聴かされている私の感情には、無頓着を装う。
どれだけ私が怒りを感じ、軽蔑すら感じているかも、本人は分からない。
自分は、正しいと錯覚しているからだ。
私を、愚かなる人だと、指導しなければならない人だと決めつけているからだ。
でも、そんな根拠はどこにも存在していない。
たった、60分間。私を見ての、全否定だ。
こういう人とは、会いたくもない。
でも、そういう人もこの世間には、多いことも知っている。
私もそうだったし、私の周りにもたくさん、そういう人は居る。
残念だが、そういう人によって傷つけられ、否定され、
生きる力を奪われてしまった人もたくさん存在している。
そうなんだよな。
どうしてそうやって、やっつけたり、やっつけられたり、
そうしないと、やっていけないのかな。
そういう人は、決まってある種の権力や優位な立場を持っていると、
勘違いしている人たちだ。
どこかの国の暴君と同じだ。
その人は、きっと変わらない。
どうしてかと言うと、変わる必要はないからだ。
みんな、その人のご機嫌に敏感に反応する。
今日は機嫌がいいか、今日は苛々しているか、
そんなセンサーが例えば一緒に暮らす人たちには自己防衛的に働くようになる。
そんないわれなき暴力から、自分を守るためだ。
だから、とてもとても気を使う。
腫れものに触るような気持ちで、生きていたりする。
自分の気持ちや想いを発言することは、諦めている。
一言返せば、理詰めでがっちりとやっつけられることが分かっているからだ。
「だから、駄目なんだ」
「どうして、できないんだ」
一昨日の私だ。
言うだけ無駄だなと、怒りの中で、少しだけ冷静になって諦めた。
つまり、関係性を断ち切って、耳を閉ざす。心を閉ざす。
その間は、道場であり、心の修業の場となる。
この理不尽な状況を、いかにして平常心で切り抜けるか。
一方的に攻撃をするということは、
私のことなんぞこれっぽっちも尊重されていないということだ。
そんな相手の酷い無駄口を聴くこともない。
しかし、家族は、違う。
それが、できない。
どんなに理不尽であろうとも、どんなに嫌だと想っていても、
関係性を断ち切ることはできない。
いや、そんなことは考えもしないのが、家族なんだ。
他人の偉い人なら、あんかべーで、それでいい。
でも、相手が、夫であり、父親だったらどうだろう。
辛いなぁと想いながらも、きっといつかいつか理解してくれると、
耐えて、我慢しして、いるのだと、私は想う。
我が家がそうだったから、はっきりとここに言える。
私も、そうした愚かな夫であり、父親の一人だった。
そして、こうして60歳になって、「なっていない」と全否定され、
攻撃されてみて、やっとこの煮えたぎる怒りの中でそのことを悟れた。
こんな気持ちや感情になるんだなぁと。
そして、そのことは、繰り返し繰り返し想い出され、
そのたびに、同じような怒りと苛立ちと悔しさとを覚え、
心や気持ちがこんなにも乱れるものなのだということだった。
つまり、あの人は、私にそのやっつけられている人の気持ちを、
体験を通して教えてくれた尊い先生であったということだった。
人は、違っていいんだ。
頭のいい人たちには、そのことが理解できない。
自分が考えたり、想ったり、決めたりしたことだけが真実であるからだ。
それをやっていない。
そうではない人を、許せない、見過ごしにできない。
それでは大変なことになると、おせっかいにも説教をする。
しかし、本当に大変なのは、
そうされている人たちの気持ちや心を感じられず、
いつまでも権力や立場を盾にしてのさばっている暴君その人なんだ。
この人は、本当に哀れな人だ。
自分目線しかこの人にはなく、
自分が全てで、相手も自分の言うことをきけばそれでいいと、
ただ、我がままいっぱいに想って、そのまま行動して、
そのことについて、何一つ疑問や反省をもたがに生きて来た人なんだな。
私を全否定しに来たその人もそうだ。
私がどんな気持ちでその言葉を聴かされているか、想いもよらない。
きっと感じられないから、あんなひどい言葉を喋り続けられるのだと想う。
もっと最悪なことは、自分の苛立ちや不機嫌を、相手にぶつける人のことだ。
パワハラとも呼ばれるこの行為は、
家族の中だからこそ、行われることが多くなった。
相手は、弱者だからだ。
絶対にこの人たちは、強者に対しては、その態度をとらない。
でも、人とは、みんな違って存在しているのだし、
どうあってもいいし、その人その人の自由なんだな。
どうして、その暴君たちは、一人一人の違いを認めず、
一人一人の想いや、願いや、夢や、希望を認めず、
この道だけを生きろ。
今のままじゃ、ろくなものにはならないと、命令するのだろうか。
暴君とその被害者との違いとは何か。
それは、暴君は、全面否定され、
こてんぱんにやっつけられた痛みや悔しさを感じられず、
いつまでも、ずっとそのままの、愚かな暴君で生き続けるということ。
しかし、その暴力に支配され屈辱感や怒りや無力感を感じた人たちは、
私だけでも人に対しては、暴君には絶対になるまいと想うこと。
その人たちは、違ってもいいんだと、きっと想うだろう。
答えは、絶対に一つではなく、多様に、それぞれに応じて存在している。
だから、私たちは、これでいいのかと日々問い直し、生き直すことなんだ。
自分の考えを一方的に押し付けることではなく、
相手の考えや想いを尊重し、理解し、共感することを先にする。
きっと、そんな生き方ができる人となるだろう。
優しさとは、そのことなんだ。
人は、やっとその時に、人としての生き方を学ぶとができる。
私を全否定したあの人には、それを学ぶ日が与えられるのだろうか。
しかし、そういう人にでも、
きっと天は、時を見て、その人にクライシスを与えるものだった。
天は、平等に全ての人を愛しているからだ。
そのチャンス。
その一本の蜘蛛の糸。
さてさて、私のことを神様は見ていらっしゃるな。
いつまでも怒っていたって、何にもならない。
そこから学ぼう。
そして、哀れな暴君を諦めよう。
ただし、私だけでもあんな暴君には絶対にならないと、
心に誓おう。
それが、今回のクライシからの、私への「意味」だった。-
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