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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/01/28 08:08:07

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    自ずからが分かる人に

    Sさんと電話で話した。
    語り合う。気付き合う。
    それってとても幸せなことだった。

    「今、ここ」が二人のテーマだ。
    それでは、「今、ここ」で何を感じ、何を喜びとしているか。
    そのことを、語ることで、発見し、気付きを深める。
    気付くということは、もうすでにここにあったと言うことだ。
    あったはずなのに、忘れていたのか。
    それとも、見えなかっただけなのか。
    とにかく、それはどこからかやって来たものではなく、
    ずっと私の奥深くに在って、眠っていたものなのかもしれない。

    木のこんという、小千谷の山里で幼い子どもたちの自然体験の場を創っていた。
    いや、そこで「遊んでいる」と言った方がぴったりのようだ。
    そこでのSさんの笑顔が何とも味わいがあるんだな。
    幼い子どもたちが思う存分に雪の上を駆け回り、
    転げまわり、ソリで滑り降りる様を見つめて、
    本当に仏様のようにほかほかと笑って居る。
    それっ何だろうねぇと、語り合った。

    大人の笑顔は、子どもたちの笑顔ですね。
    子どもたちの笑顔は、自然の笑顔です。
    あの雪の上をはしゃぎまわって遊ぶ時、
    子どもたちは、自然のあるがままになきりっています。
    そのあるがままのなりきりを、
    そんな楽しく笑うその姿を見ているだけで、
    大人の心が和み、笑顔になる。

    大人は、子どもたちを通して、自然と改めて出会い、
    感じている。
    すると、自分の中に眠っていたあるもののが覚醒し、
    目覚めて来る感覚を味わうことができる。
    身体が喜んでいる。
    身体が本心から楽しんでいる。
    その感覚を、感動と呼ぶのではないだろうか。

    もう、言葉での説明じゃないですね。だった。
    まず、感じる。まず、深くで動く。感応する。
    そこで、声が出される。
    笑顔が生まれる。
    身体がいつの間にか動き出す。
    大人が、大人をすっかり忘れて、生(き)のままになる。
    生成りだな。

    実は、こんなことも二人で語り合った。
    木のこん通信を、私はSさんにはぜひぜひ書いてもらいたかった。
    いつもいつもお願いするけれど、
    なかなかうんとは言ってくれなかった。
    それは、「考える」からだと、私は想った。

    ある日、Sさんからのメールが、
    自閉症の男の子への話し言葉で書かれてあった。
    あっ、これだと、私は感じた。
    書こうとするから、書けなくなる。
    でも、身体で感じままを、ただ言葉に置き写す。
    つまり、語りかけるようにして、言葉を表す。
    その時の言葉は、身体が知っているから、
    その時の表現が本物なら、しっかりとはまる。気持ちいい。
    感じたまま。見たまま。想ったまま。
    ただそれだけ。
    すると、その感じと言葉とがピタッとあつらえたようにしっくりと馴染む。

    考えた言葉は、疲れるが、
    感じられた言葉は、気持ちいい。

    へぇっ、みんなみんな身体が知っているなぁ。
    ここに、全ての答えは、隠されているなぁ。
    でも、どうしてそのことが「わからない」のだろうかね。
    そんな話に、語りは向かった。

    最近、私が分かったことは、
    きっと人とは、自分自身を分かるために生涯を与えられているのではないか、
    ということだ。
    「自ずから」という、この言葉と生き方とがとてもとても大事なんだ。
    「自ずから」あるものは、あの子どもたちの笑顔のように確かなものだ。
    本来は、それしかない。
    その「自ずから」の働きで、ただ「今、ここ」を生かされているのが私なんだ。

    だから、前も後ろもない。
    過去も未来もない。
    前後遮断。絶対の今、ここだ。
    その今、ここの私を生かしている「自ずから」とは、一体何だろう。
    その「自ずから」は、私だけの「自ずから」ではなく、
    みんなの「自ずから」であり、
    このお日様の光も、小鳥たちの声も、この雪の下で耐えるビオラも、
    みんな同じ、「自ずから」で生きている。

    生かされているのに、
    そうやって一瞬も休むことなく、絶えることなく働き続けているのに、
    それなくして、その働きなくして、生きるはないのに、
    私は、その「自ずから」のありがたさを忘れて、
    のほほんと、自分勝手に、己のままに、生きている。
    だから、気付けということ。

    いつもいつも自然は、ちゃんとそこのとを教え、伝え続けている。
    だから、その声を聴きなさいということ。
    身体は、まさにその自然であるから、
    私は、もっともっと身体に問い、身体に聴き、身体に学べばそれでいい。
    つまり、人は、その「自ずから」を生きるために、
    この生涯を与えられた。

    だから、人の生涯の使命とは、
    「自ずからが分かる」ことなんだ。

    そのために、試練が在り。絶望があり。挫折が在り。哀しみが在る。
    私は、父と母とを亡くし。どうにもならない私に気付き、
    孤独であることを感じつつ、涙をどれだけ流したことか。

    でも、そうした私が、どんなにちっぽけでね無力なる男なのかを感ずるたびに、
    何だか少しずつ少しずつ、深くなっていくようにも感じている。
    この深さっていったい何だろう。
    そして、その深さに落ち着くと、やっと独りでいられる私になった。

    独りで居られる。
    何だかその時は、深く、確かで、信じられるものと繋がっている気もする。
    だから、独りだけれども、独りではない。
    人は、けっして独りにはなれないものだ。

    やはり、二人の語りは、そこに落ち着く。
    「自然体で生きたい」ものだ。
    「今、ここを感じて、楽しく生きたい」ものだ。
    「感じたままに、言葉で顕したい」ものだ。

    そんな話をしていると、あっという間に1時間はたってしまう。
    本当に、ありがたい出会いだと、
    いつもいつも電話が終わると、感謝の余韻に独り浸っている。

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