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from: クマドンさん
2018/02/10 14:30:39
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何もしない午後の私
何もしていない。
朝から、ただぼーっとしている。
庭のつげの下に、バードテーブルをつるした。
妻が三角のそのポットを逆にして木につるした。
そこに、ミカンを輪切りにして入れた。
雑穀も少々。
すると、いつものヒヨドリがやって来た。
最初は見慣れない餌場に、少々警戒気味だった。
少し離れた枝の上から、
辺りの様子をうかがっている。
暫くして、安心したのか、そのポットの下に下りた。
そこでこぼれた雑穀を、一つ一つついばんでいた。
その内に、ミカンの魅力には抗えないのか、
さっと飛び乗り、無心につつき始めた。
ただミカンをつついているその姿に、
不思議に癒されてしまう私だった。
無心とは、心が無いこと。
でも、その心が無いことで、
そのままのまんま生きられる。
そのまんまって、とても穏やかで、気持ちいい。
私も、何もしないこんな日は、
少しばかりその無心を感じて息をして暮らせるようだ。
人と会わない。
人と話さない。
人とかかわらない。
そうすると、やっぱり私は穏やかで、のほほんとしてられる。
私が有心となるのは、
そうした人らしい人と出会うからだった。
何だかそっち側にいる人たちと、かかわっていることが、
とてもとても心の重荷となり、
嫌だなぁと、想うことが多くなった。
半端じゃない有心・我がままに翻弄されると、
何だか突然、何もかも嫌になって、辞めてしまいたくもなる。
もう、こんなに歳をとったのだから、
そうした人たちを避け、
そうした人たちと会わずにいられる生活はないものかと、
そんなことを考えたりする。
「これは、こうなんです」
「こうでなければなりません」
私は、そういう正義と頑固さに、
何だか耐えられなくなっているようだ。
すると、ヒヨドリがやって来てくれた。
本当に、餌をついばむ姿が可愛くて可愛くてだ。
そのヒヨドリのことをずっと見つめていたら、
いつの間にか、私自身もヒヨドリと同じく、
無心になれた気がした。
「ああだ。こうだとは、いいたくないんだ」
「もういいんだ。そっちはそっちでやってくれ」
とかなんとか、少々疲れた心には、
自然のままの、のほほんとした無心が、
何だか心の癒しとなっている。
人は、有心であるから、イライラとしたり、腹を立てたり、
ああだこうだと悩んだり、もういいやと諦めたり、
人の中に生きていると、そんな感情の波が次々とやって来る。
じっとしていない。穏やかでない。凪ではない。
でも、ヒヨドリは、それがない。
確かに、自分の餌場に入って来た雀を追いかけるが、
それはそれでそれだけで、
疲れたら、一緒に雀と餌をついばむ。
そこには、何も矛盾は感じない。
心無心で生きたいものだ。
無とは、なくなってしまうということではない。
本物が顕れるということだ。
その本物の促しと、働きとでヒヨドリは生かされている。
ただ、その働きに全てを委ねているだけなんだ。
人は、委ねない。
自分が居る。
自分を主張する。
自分勝手に生きようとする。
それは、有心。
求めているのは、その有心ではなく、心無心の心である。-
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