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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/02/27 06:13:16

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    定だなぁ。

    さてさて、今朝もまた、スタンドに左足の小指をぶつけてしまった。
    これがまた、痛いのなんのと言ったらありゃしない。
    一昨日も同じことをして、ずっと痛みに耐えていた私。
    よーし、次は気をつけるぞぅと想っていた私。
    ところが、スタンドをまたいだつもりが、
    しこたまぶっつけ、スタンドを蹴ってしまった。
    同じことは、確かに繰り返される。
    それが、宿業というものなんだな。

    父と母の子として、生まれて来て幸せだった。
    人は、いろいろな人生が在り、いろいろな宿業の中で生まれさせられる。
    そのことは、私が選べない定でもある。
    そう決まっている。
    そうなっている。
    そこに、生を受ける。

    私は、この世に出ることを、この世に生きることを拒んだのか、
    三日三晩仮死状態であったらしい。
    そんな私のちっぽけないのちを諦めず、
    父や親戚の叔父たちが、酸素吸入で必死に生かされたのが、
    このいのちだそうだ。

    へその緒が袈裟状に首に絡まっての窒息だそうだ。
    当時は昭和32年。
    そんなに医術が進歩していたわけでもなく、
    沼垂の小さな産婦人科で、できるだけの手当てをされて、
    この私は、生まれた。

    煩悩具足の、本当に、何ともなぁ、どうにもならないなぁと言う私。
    それでも、こうしてそれなりに生かされて来たことには、
    きっと何かの意味があるんだとは、信じている。

    実は、この定であり、宿業であり、宿命であると感じた時、
    人は、自分で自分のことを何とかできるとは、
    想えない、そんな自分となっている。
    まだまだ、何とかできると欲をもって生きていれば、
    きっとあっちこっちにけっつまづくはず。
    痛い目をみて、どうにもならない状況に自ら堕ちる。

    しかし、同じ、この今、ここを、
    「ああ、定だなぁ」とか、
    「宿命だなぁ」とか、想うことで、
    今、ここは、全く違った世界に変わって行く。
    そこで、どうするかだ。
    私は、ただお任せすることにした。

    どうせ、定であり、宿業であり、宿命なのであるなら、
    仮死状態でも、三日三晩酸素吸入でも、
    かんしの為に右耳が難聴でよく聴こえなくても、
    それでも、60歳まで生かされて来たことは、
    ただただ感謝しかないからだ。

    そして、その定めや宿業や、宿命を私に与えた神様。
    その働きは、今、ここ、この私にも働いている働きであるから、
    そのことだけは、絶対に確かなことと信ずるから、
    きっと、迷いながらも、悩みながらも、
    とぼとぼと、自分に与えられた、その道を、
    この道を歩き続ければ、きっと出会えるはずの何かを信じて、
    今、ここを、一歩一歩歩くことしかないんだなぁと、
    今は、そう想う。

    与えられていることの、全ては、在り難いことだ。
    父と母との元に生を受けたこととは、
    その父と母との元に、そして、そのまた父と母との元に、
    そして、その父と母との元に、そして、それは・・・・ずっと、ずっと、
    果てなく続く父と母とのいのちと繋がる。

    どこにも途切れたことはない。
    会ったこともなく、その姿形、その存在すらしらない無数の父と母たち。
    そのいのちを、私は、今、ここで受けている。
    このいのちは、受け渡され、受け継がれたいのちだ。
    私ではなく、いのちが、私を生きている。
    この身体は、いのちの器だ。

    いのちが宿る。
    宿りとは、旅の一夜だ。
    このいのち。
    そのいのちのままに、生きる。
    いや、私を捨てたところにこそ、
    いのちの生きる舞台ができる。

    そのいのちの役を、演じ切ることだ。

    いのちの、この世での顕れとなることだ。

    それが、定なんだ。
    それが、私の宿業であり、私の宿命だな。

    そのことを、使命とも言う。

    このいのちを、どう使い切るかだな。
    みんなが幸せになってくれたら、それでいい。それが本望。
    そうやってそのいのちを使い切った人が居る。

    いや、きっとそうやっていのちを使い切ることが、
    人としての本来の在り方なんだな。

    このいのちに酬いる。
    いのちを与えてくださった神様に、お返しをする。
    そんな時が、来たようだ。

    さてさて、どういうわけか西郷どんをいつもいつも想っている。
    この新潟市北区松浜に、あの維新の頃に、
    一カ月もの間、ここに滞在していたという事実。
    それは、彼が自分のいのちをどう使おうかと、
    人のいのちをどう救おうかと思案していた時間でもあった。

    そのことは、いつかここに記したい。

    生きているから、左足の小指が痛む。
    これもまた、生きているからこそのことの1つだった。

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