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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/05/23 07:20:25

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    村上藩 鳥居三十郎

    幕末の村上藩の家老、鳥居三十郎について学んだ。
    官軍に責められ、恭順か逆賊として戦うか、
    そのどちらしか道は残されていない。
    長岡藩の河井継之助もそうだった。
    有無を言わせぬ。徹底的に攻め滅ぼす。城と街とを焼き払う。
    それが長州藩を主導とする官軍の戦術だった。

    見せしめの意味もあり、長州藩が幕府によって被った度重なる非道に対する、
    遺恨であり、怒りでもあった。
    だから、奥羽列藩は、ことごとく果敢で激しい攻撃に晒され、
    大勢の有意な命を藩のために失った。

    村上藩は、徳川家康からの縁が在り、三河以来の家来であるとの自負があった。
    しかし、時の藩主は、勤王の思想をもつ人であったが、
    折り悪く、藩主は江戸の藩邸だった。
    つまり、この村上藩の運命を、
    ここに遺された家臣たちで決定しなければならなかった。

    そこで、鳥居は軍議を開いた。
    驚いたことに、藩の意見は真っ二つに分かれていた。
    もはやこれまでと、恭順に腹を決める者。
    いやいや最後の1人までも戦うのだとの徹底抗戦を主張する者。
    これでは、同志討ちになってしまう危険もあった。
    大局から考えたら、まず、この城を守り、町民を守り、村上の町を守る。
    このまま戦になれば、官軍は容赦なく攻め滅ぼすはず。

    そこで、鳥居は大決断をする。
    それぞれが、それぞれで、思いを決する方向に進むということだった。
    恭順派は城に残り、官軍との和平の道をつける。
    交戦派は城から出て、庄内藩と合流して、外で徹底的に官軍と戦う。
    「己の志のままにしようぞ」だった。
    そして、鳥居は170~80名を連れて、庄内藩の陣屋に向かった。
    さてさて、それからの鳥居三十郎の運命は、
    まさに講談のような物語だった。

    私は、講師のお話しを聴きながら、涙が出そうだった。
    三十郎の心情を想うと、深く深く感ずるものばかりだったからだ。
    彼は、最後まで武士としての使命を全うする。
    そして、藩と民と町を守ることを第一とした。
    今、あの村上の500軒町屋が在り、
    おしゃぎりが各町内の遺されているのは、
    こうした真摯に生き、死んだ村上藩の武士たちのおかげだった。

    実は、松浜の西郷さんについてKさんの資料を読んでいる内に、
    私は、日本史をどうも官軍の立場からしか理解していなかったことに気が付いた。
    戦は、いつも西からやって来る。
    そうなんだな。
    そして、昨日「心の時代」の録画を観た。
    カンボジアの内戦で荒れ果てたアンコールワット。
    その復元に尽くした西澤さんの物語だった。

    クメール王朝の後、内戦が起こり、ポルポト派の虐殺が始まった。
    都市や町から人が消え、文化人は皆、殺戮された。
    「キーリング・フィールド」という映画に、克明に記されている。
    実は、それと同じことが、
    幕末の日本で起きていたのではないだろうか。
    北陸戊辰戦争については、
    官軍側からの視点で歴史を見るのではなく、
    攻撃され、支配され、殺戮と略奪をされ、田畑を荒らされ、難民とさせられた、
    私たち、北越の人たちの側から、
    この戊辰150年の今年、検証する必要があるのではないだろうか。

    果たして、官軍は、正義だったのか。
    錦の御旗をかざして一気に北へ攻め上って来た官軍を、
    私たちの先祖の人たちは、どのように見ていたのだろうか。
    太夫浜に上陸した官軍は、沼垂を通り、関屋で米沢藩や庄内藩の武士と戦した。
    あの新潟高校の前の公園が、まさに切り合いの戦場だった。
    鉄砲と大砲の音が鳴りやまず、戦の声があちらこちらで響き渡る。
    新潟の町人たちは、生きた心地すらしなかったはず。

    官軍とは、いったい何だったのか。
    突然、船に乗って現われ、上陸するや否や刀を抜き、鉄砲を打って街中を走る。
    暴徒とは、いったいどちらのことなのだろう。

    私は、そうだったなぁと、やっと60歳になってそのことに気付いた。
    教科書の歴史は、明治政府の造り出した歴史なんだ。
    その歴史をそのまま鵜呑みにして、
    そうやって維新が行われ、新政府が設立されたということを、
    私は、子どもたちにも教えた。
    しかし、視点を変えたらどうだろうか。

    小千谷談判の河井継之助。
    村上藩の鳥居三十郎。
    彼等は、そして、村上と長岡の人たちは、この官軍をどう見ていただろう。
    ある意味、ここがカンボジアであり。
    ここが、キーリング・フィールドになったのではないだろうか。

    私たち北越の人たちは、そんな視点を持って、
    この幕末の日本の動きを再び問い直さなければならないのだと、私は想う。

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