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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/05/30 10:30:04

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    だから私は如来を信ずる

    こんな奇跡があったという話。
    日曜日に私は豊栄から車で帰宅途中だった。
    ちょうど小嶋屋の近くの信号の手前だったかな。
    私と同じフリードで、同じえんじ色の車が走っていた。
    同じだなぁと、何気なくそのナンバープレートを見た。
    「10-・・」
    私は、その瞬間、驚いてハンドルを握ったまま、飛びあがりそうだった。
    「同じ・・・だな」だった。

    何とその車のナンバーは、
    その四傑が全く同じナンバーだった。
    この私の車のナンバーは、次男の誕生日だ。
    それと、まったく同じナンバーを陸運局は発行したのか・・・。
    まさか、まさか。
    私は、その車が赤信号で徐行したので、
    隣の車線からゆっくりと近づいて確認した。

    すると、向こうのナンバーには「ほ」の文字。
    私のナンバーは、確か「て」のはず。
    つまり、この平仮名だけが違っていたのだ。

    全く同じ車に、平仮名だけが違う同じ数字のナンバーだった。
    こんなこともあるんだなぁと、
    とにかく、私は、生きていれば何でもありだと、改めて感じた。
    そして、暫くして、はっと気付いた。
    同じ車に同じナンバーは、あるかも知れない。
    でも、その2台がこうして出会う確率は・・・・。
    何とも気の遠くなるような話だった。

    「もう駄目だ」はないなぁと、ふと感じた。
    「こんなことが現実に起きる」のだから。
    現実は、人の予想や想像力を遙かに超えて存在している。
    こんな不思議な軌跡を目の当たりにしたら、
    「奇跡はある」と、確信できる。
    「全てのことは、必然なんだ」も、はっきりと言える。
    実は、長く生きていると、こうした必然的な奇跡との出会いが多くなった。

    本当にそうだ。
    「何でこんなことが起きるのだ」は、その出くわした瞬間に感ずること。
    しかし、暫くして、幾つかの出来事や体験を重ねるうちに、
    「ああ、あれは、こういう意味があったのか」と、気付くことも多い。
    罪を犯し、どん底に堕ちたとしても、
    そこに到るための意味が在り、絶対に必然は存在する。
    「どうして私だけがこんな目に会うのか」と嘆くことも多かった。
    しかし、今は、そのことがあったから、
    こうして、今、ここで、生きていられる。

    私が教会に帰り、再び信仰を生活の中心とできたのもそうだった。
    まさに放蕩息子の私は、二十数年間、教会を離れ、信仰を失った。
    しかし、ここには書かないが、この5年間、私は本当に試練の連続だった。
    「これでもか。これでもか」だった。
    「まだですか。神様、まだあるのですか」だ。
    私は、どんどん痛みと苦しみと絶望の中に追いやられた。
    そこは、全くの闇夜の孤独だった。
    「ああ、人とは、独りなんだな」と、どん底の孤独も味わった。
    「もう駄目だ」その時、やっとこの言葉を心から発することができた。

    「助けてください」だった。

    溺れなければ、助けは必要なかった。
    自分ができる、自分がやったも、助けの必要は感じられない。
    傍から見たらどうであろうとも、
    本人は自信満々、自分の意のままに、生きることができると思い込んでいるからだ。
    その時なんだ。
    人が、「まさか」の出来事で、突然どん底の闇に突き落とされるのは。
    私が、そうだったから、そのことは、言える。

    しかし、その私のひとをずっとずっと見つめている眼差しを知らなかった。
    私の弱さと愚かさとを憐み、気遣っていてくれる人が居ることを知らなかった。
    でも、その憐れみと気遣いに気付くためには、
    やっぱりいったん、「まさか」のどん底に人は堕ちなければ、覚らないのだ。
    だから、私にはあれだけの試練が在った。
    そして、今でも、こうしていてもその試練は続いている。

    しかし、今は、安心している。
    例え、どんなことがあろうとも、そのことは私にとって意味のあることだから。
    そう確信できるようになれたことが、
    何よりもの私自身の救いであり、信仰であると思う。

    Tさんのお寺の玄関にある色紙の言葉だ。
    「如来に信じられ 如来に見つめられ 如来に尊っとばれ」
    だから、「私は、如来を信ずる」と。
    本当にそうだなぁと、今は、この言葉を信じられる。

    Tさんと、何と昨日のお昼に本町市場で出会った。
    まさか、ここで、Tさんに出会うとは・・・・。
    数カ月前には、駅前のコンビニで出会った。
    その時も、まさかここで出会うとは・・・だった。

    奇跡に充ちている。
    いや、奇跡だらけなんだな。

    同じ車種・同じ色・同じナンバーの車同士がある瞬間出会う。
    これでもか、これでもかの試練に出会う。
    しかし、全てはあざなえる縄の如く、一つ一つにみんな意味が在った。
    会いたいなぁと想っていると、不意にTさんとひょんな場所で出会ったこと二回。

    つまり、人のことは、その人を超えたところで動いているし、決まってもいる。
    だから、じたばたしない。右往左往しない。おろおろしない。
    威張らない。俺が、俺がとは言わない。人の話に素直に従う。誠実に生きる。
    泰然自若。何とかなる。大丈夫。

    たった一台の車との出会いから、
    これだけのことを教えてもらえた。
    感謝。感謝。必然に感謝。人生の意味に感謝。感謝。

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