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from: クマドンさん
2018/06/15 10:42:34
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映画「七人の侍」からのメッセージとは
映画「七人の侍」
それは、まさに死者たちからのメッセージだった。
官兵衛から全ての物語は始まる。
彼は通りがかりに盗人に人質にされたこ幼子を救う。
自らの髪を剃り、僧侶の姿となってから。
彼は、既に自分がいらなくなっていた。
百姓たちへの憐みだった。
まず、試してみよう。やってみよう。
すると、彼の眼にかなった侍が集まって来た。
みんな負け戦を経験し、そして、中年になろうとしている。
立身出世と仕官の夢破れ、その日暮らしの侍たちだった。
腕も大事だが、何よりも「心」だった。
その「人柄」を第一にして彼は、侍たちを選んだ。
ただ「飯を食わせる」俸禄はそれだけだった。
菊千代が実にいい。
彼はとにかく官兵衛に惚れたので、
彼に付いていくことを自分で決めた。
まさに自由奔放・天真爛漫。
そんな人柄が、いつしか侍たちからも可愛がられた。
そんな菊千代が、侍と百姓との心を一つにした。
突然鳴った拍子木の音に、侍は馳せ、百姓は侍たちに助けを求めた。
百姓は、ずるがしこく生きていた。
侍を雇っても、自分の利益だけは守りたかった。
そんな欲得で生きている百姓たちの中に、
この稀有な侍たちがやって来る。
まず、この村を野武士たちの襲撃から守るための作戦を立てた。
川向うの数件の家は捨てる。
その中には長老が住む水車小屋もある。
果敢に決断する。
「この村がなくなっては、あの家の者も生きられないのだ」
官兵衛の怒りの声ががんと響いた。
落ち武者狩りで、手に入れた武具がたんと隠されてあった。
この侍たちは、落ち武者になって逃げのびたことがある。
また、落ち武者となり、友をそこで失ったこともあるかも知れない。
「俺は、こいつらを切りたくなった」という呟き。
それに対しての菊千代の心からの叫びがよかった。
戦で田畑を荒し、作物を奪い、女を略奪する。
そんな酷い目に百姓たちを合わせたのは、ぃったい誰なんだ。
その言葉を聴き、黙ってしまう侍たち。
この人たちには身分はなかった。
何だか哀れに感ずる者のために、身体が動くようになっている。
可愛そうな人が居たら、そっと手助けしてやりたいとの想いをもっている。
侍たちは、飯を食べにここに来たのではない。
そこに、この侍たちの美学があるような気がする。
野武士たちに家族を殺され、独り暮らしのお婆さんが居る。
若侍の米の飯を、若い女は、彼女に届けた。
そのことを知った剣の名手の侍は、
「今度は俺が残す。お前は食べろ」と言う。
そして、事情を知った侍たちは、
自分たちの給金である「飯」を村の子どもたちに分け与えた。
いつも菊千代が子どもたちを笑わせ、かまってくれる。
だから、彼のことを子どもたちは大好きだった。
そして、野武士の最初の襲撃で、水車小屋が焼かれた。
そこから、赤子を抱いて切られた母親がその子を菊千代に託した。
その赤子を泣きながら抱きしめて、
「これが、俺だ。俺なんだ」と、泣き叫ぶ菊千代。
ここに、彼の人柄の全てが顕わに隠されていた。
完璧な作戦は、独りの功名によって、破たんする。
突然、予想外の展開となり、
侍たちは、次々と討ち死にをした。
それでも、最後の一騎を倒すまでは、
この大雨と泥の中での戦いは、止まない。
思い出してみると、侍たちが倒れていくと同時的に、
百姓たちの闘いが、勇猛になる。熾烈になる。恐れずに向かっていくようになる。
いつの間にか、戦い、野武士を追い詰め、槍で刺しているは百姓たちだった。
ラストシーンは、田植えの田楽だった。
早乙女たちが、苗を田に植える。
みな喜びに充ち溢れた表情だった。
春が来た。
また、一年がここから始まる。
村の百姓たちの生活は、そのまま続く。
秋には実りを迎え。
冬には、きっと雪の中で静かに暮らす。
「勝ったのは、我々ではない。あの百姓たちだ」と官兵衛が言う。
死者たちは、私たちにいったい何を遺してくれたのだろうか。
映画を観ながら、はたっと、気付いたことがあった。
この映画は中学生ぐらいから、何度観たことだろう。
大事な台詞は、いつの間にか覚えて、私のものになっている。
それなのに、改めて驚いた。
抜刀して立ち向かっていく侍がどっと前のめりに倒れる。
そして、「バン」という鉄砲の音だった。
山谷の野武士の隠れ家を襲った時もそうだった。
百姓を助けようとした千秋侍が倒れる。そして、「バン」だ。
身体の動きと音が合っていない・・・・。
しかし、これこそ黒澤監督のリアルなんだと、後から気付いた。
遠くで討った種子島の玉が、侍の腹を撃ち抜く。
侍はすぐに倒れる。
種子島の音が届く。
これってリアリズムなのではないだろうか。
そして、考えた。そして、気付いた。
闘いで亡くなった4人の侍たちは、
全てこの種子島にやられて倒されたということに。
侍は、種子島に討たれたんだ。
そして、最後の墓をバックにしたラストシーンだ。
あれは、シェーンのラストシーンと同じではないかという驚きだ。
墓が象徴するのは、官兵衛たちの明日のことだった。
刀で闘った武士(もののふ)たちの時代は、終わったのだ。
侍たちは、老いを感じている。
夢中になって戦場を駆け回り、生き残って見れば、
父も母も無く。妻も子もなく。家も耕す田も畑もない。
官兵衛に生き延びる道は、遺されてはいないのだ。
それは、シェーンも同じだった。
あの墓石の中をゆっくり馬に乗って立ち去って行くシェーンだった。
まさに、この「七人の侍」は、ジョンフォードや西部劇の主人公たちへの、
黒澤監督からのオマージュだったのだ。
さてさて、私は、60歳になってこの映画をこうして観直した。
すると、官兵衛がより親しく感じられるようになった。
というよりか、何故、官兵衛たちは、百姓たちを守ったのか、
そのことの深い意味が何だかやっと分かった気がした。
もはや人生の黄昏時だ。
何も持たず、ここにただ生きている。
しかし、見捨ててはおけないものがあれば、
そこを見過ごしにしないで、こんなちっぽけな命が何かの足しになるのなら、
最後の御奉公として、ここに命を賭けてもいいのではないだろうか。
「どうせ捨てた命」だ。
「どうせ戦場で拾った命」だ。
それでも、まだどこかで必要とされているのではないだろうか。
こんな老いぼれであろうとも、
求められるところが在れば、
そこへ赴き、
損得ではなくなく、無私に生きて、最期を迎える。
本当の生き場所とは、その命の死に場所のことなんだな。
百姓たちは、その死に場所を七人の侍たちに与えてくれた。
亡くなった四人は、百姓を守るための戦で死んだ。
ある意味、見事な最期であり、死にざまだったと思う。
「団塊の世代」の人たちは、この映画を観て何を感じるだろうか。
もう、そこまで人生の最期は見えている。
振り返って見たら、「無名」な人生。
それでも、なお、侍として生きて来た誇りも自負もある。
しかし、身体が、老いが、病が・・・・だろう。
そんな日常の前に、「お助け下さい、御侍様」と百姓が土下座したら、
私は、どうするかだな。
「やっぱり、「見過ごしにはできない」と、その村に赴くか、だな。
団塊の世代の人たちは、終わった人たちでは決してない。
これから来るべき最期を迎える人たちとでも言えるかな。
みんな「侍」として生きて来た。
だから、もう少し残されたこの人生も「侍」として生きて終わりたい。
しかし、現実はこの映画にも描かれているような「へなちょこ侍」ばかりだった。
本物の「人生の侍」はなかなか居ないものだった。
その命を何のために燃やし切るか。
本気でそう考えて戦いに迎える老いた侍が何人いることか。
官兵衛が観たように、声をかけられる侍は、たった四人だった。
いかに生涯の最期を迎えるか。
そんな「問い」をこの「七人の侍」は、
私たち6o代・70代・80代の人たちに与えているのではないだろうか。
今、村が町が疲弊している。
さて、いったい誰がこの村や町を守って行くのか。
そして、この村や町を受け継ぐ人たちに、
どんな幸せを伝え、遺して行くのか。
現代の「七人の侍」の出現を、時代は今や遅しと待っている。
これが、死者からの深い深いメッセージなのだと、私は信じた。-
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