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from: クマドンさん
2018/06/16 09:46:21
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学ぶ人
さてさて、本日でスイミングが最後となる。
クロールと背泳ぎ50mを目標とするコースだった。
コーチのSさんには、本当に教えられた。
何よりも教えるとはどういうことか。
習う私にポイントをつかませるためにはどうすればよいのか。
そんなコーチングについても、たくさん学んだ。
クロールのバタ足は、私は全く前に進まないバタ足だった。
それは、足首が曲がったままで、膝が固く曲がっていなかったからだった。
「走るようにして、泳いでみてください」
本当にうつ伏せになって走りながら泳いだら、
彼女の言っていることがよく分かった。
バタ足だけでも推進している。
自分でも驚きだった。
入水の時、両腕とも内側に入る癖がある。
きっと私はそれがいいと思い、50年以上そうやって泳いでいたのだろう。
「両方のコースロープを掴む意識です」
そのつもりで、入水の手を外側に開いた。
それでジャストフィットだったようだ。
「最後のプッシュだけに力を入れます」
私は25m泳ぐだけで息切れをしていた。
それは、いつも身体の何処かに力が入っていたからだった。
「脱力ですよ」
本当に水に浮くためには、脱力なんだとよくよく分かった。
しかし、陸上でのヨガと違い、
スイムは不安定で、沈むことが当たり前の水の中の動きだから、
なかなか自分の身体が指摘されたようには動かなかった。
頭ではポイントを意識するのだが、
意識すればするほど、こんがらかってしまい、上手くできない。
長年染みついたスタイルを、ここで一旦零にする。
そのことへの身体と頭からの抵抗感を常に感ずる。
そんな時は、彼女は私の首や肩や背中を支える。
足をもってその動きを動かせながら教える。
つまり、意識してもできないのだから、
身体そのものに感じさせ、理解させるということだった。
それから、彼女のコーチングは、ただ泳ぐのではなかった。
休みをたっぷりとりながら、
その間に、理論を伝える。
どうしてそうなるのか、その理由を明確にする。
どうしてできないのかを、具体的な例を使って説明する。
ここで、身体と思いとが、ジャストフィットする。
その瞬間「ああ、そうか」なんだな。
実に、彼女のコーチングには、腑に落ちることばかりだった。
しかし、それは誰にでもというわけではないとも想っている。
今、ここに、ここまで泳げる技術をもっている私たちだから、
そのちょっと先を行く言葉は、すーと理解される。
その指摘が、次の泳ぎの自分への課題となる。
彼女は、私の泳ぎを見る。
良くできているところと、改善が必要なところがよく分かる。
泳いでいる私を止める。
そして、私に彼女の気付きを伝える。
その時、彼女の「言葉」がとても有効な意味を発する。
その「言葉」は、単なる理論ではなく、理屈でもない。
きっとその時の私の泳ぎを的確に表現する「言葉」であった。
その「言葉」は、彼女の経験知を通して、厳選された「言葉」だった。
だから、その瞬間の私だけには、ジャストフィットする。
しかし、そのジャストフィットした「言葉」には、
しっかり普遍性が保たれている。
だから、その「言葉」は、他の生徒の心にもちゃんと響く。
真剣に個に対応し、個に向けられた「言葉」は、
全ての個に対応し、全ての個に理解される「言葉」となる。
その普遍性とは、深く深くを体験し、経験し、
自らの身体を通して学んだ人にしか、語れない「言葉」だった。
その「言葉」を語り、相手に伝えられる人が、
本当の「師匠」であり「先生」なんだと、私は想った。
その「言葉」は彼女の「言葉」であるが、
それは、私の身体の「言葉」となる「言葉」なんだな。
身に着くという「言葉」があるように、
学んだことが身に着くことで、やっと私は学んだと言える。
それは、ヨガでも、書道でも、合唱でもそうだった。
先生から学んだことを、一つずつほんの僅かでも身に着ける。
自分の身体で表現できる。
自分の身体で形作れる。
自分の身体で自在に動ける。
つまり、そういうことだったんだ。
頭で学んだことは、ただ学んだつもりのこと。
頭で学んだことと、身体で学んだこととは乖離して、一体になっていない。
頭で学んだ「言葉」を聞かされても、私の心には響かない。
しかし、身体で学んで究めた人の「言葉」は、私の身体にびんと響く。
それは、きっと互い同士、身体同士の自然だからだ。
彼女の身体が学んだ真理は、私の身体も学べる真理だ。
私はきっと、彼女の指摘をヒントにして、
私の身体を開発すればよいからだ。
開発とはどういうことか。
全く存在しない、無いものを、私は私の身体では開発できない。
しかし、その「言葉」で表される宝が、この身体にも埋蔵されているから、
私は、そのタレント(宝)を開発・発掘するのである。
つまり、私の肉体としての身体が変化した。
私の泳ぎが進化した。
私の筆運びに力が入るようになった。
私の歌声の響きが深く豊かになった。
その今、ここの、私が変わったと自覚できることこそ、
私が学んだと言えることなんだ。
「学ぶ」とは、「変わる」ことだと、林竹司先生は言った。
つまり、学んだことの照明は何かと言えば、
学ぶ前の私と、学んだ後の私が変わったかということだけなんだ。
もし、何も変わっていなかったら、
その学びは無駄だったと自覚することだ。
そしたら、変わらなかった原因を探ってみればいいだけだ。
人は、生涯学ぶもの。
しかし、師の無い芸事は存在しないように、
学ぶためには、やっぱりよき師・先生を求めることだ。
幸いなことに、私は、退職してからたくさんのよき師に出会えた。
そうした出会いを、本当に在り難く感じている。
感謝している。
「途中の会」「途中の人」とは、学び続ける人のことなんだな。
人生の師であるSさんにまた電話したくなってしまった。-
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