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from: クマドンさん
2018/07/02 16:59:37
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ゼロポイントを発見する旅
初めて東京まで車での往復だった。
正確には川崎市多摩区堰という町までだった。
次男が仕事で転勤となり、そのための引っ越しだった。
東京へ車で行くという選択肢はこれまでに絶対になかったものだった。
まさか、そんなに長距離を高速で走るなんて、
自分には無理だと考えていたからだった。
しかし、ある日、従兄の車で東京に行った。
叔母の葬儀のためだった。
そしたら、群馬を過ぎたら三車線だった。
5時間余り。
何だか運転が苦手な私でも、やれそうな気がした。
妻と二人で交代交代だったら、何とかやれるのではないか。
そんな予感を私はその時、感じた。
確かに高速道路は順調だった。
疲れたら休む。
先を急ぐ旅でもなかった。
引っ越しの荷物を運び、向こうからはゴミを積んで帰って来るだけ。
三芳のSEに再び感動して、練馬を降り、都内に入った。
そして、ナビの指示を聞き間違えて、道を迷った。
大渋滞に巻き込まれた。
自分が今、どこに居るのかも皆目見当がつかなかった。
ナビの言う通り走るだけ。
多摩川の橋を渡るだけでも1時間近くを要した。
本当にどうして道を見失ってしまったのか、今でも理解できない有様だ。
やっとやっと次男のアパートにたどり着いた。
それは、60歳になるまでやったことのない冒険でもあった。
東京まで車で行けるんだ。
人には何でもないことが、私にとっては大発見だった。
そこは、都会ではなく、何だか見慣れた住宅街だった。
液の近くにスーパーと小さな居酒屋があるだけの、
都心から離れた通勤・通学の場所だった。
翌日、さっそく私は、その街の小さな教会を尋ねた。
プレハブの小さな昭和を感じさせる教会だった。
新来会者として、住所と名前を書いて、会堂に入った。
木製のベンチが並んでいた。
礼拝の出席者は、9名だった。
その素朴さと、温かさと、純粋な祈りに感動だった。
信仰を大切に守り、育てている人たちがここに居る。
私は、何だかとても不思議な感情に満たされてしまった。
初めて訪れたこの街の小さな教会。
しかし、私は何だか必然的に導かれてここに来たように感じた。
主日にもたれる世界中の教会での礼拝。
ここで、やっぱり主はご臨在して、この人たちの生きる力となっていた。
その生きる力と信仰とを共有し、共感していることの不思議さ。
伝道者の女性の物語にも、深く深く心に感じた。
私は、ただその感謝として、大きな声で讃美歌を歌った。
それが、私にできる唯一の信仰の証だった。
「この教会にまた来たいなぁ」が、正直な気持ちだった。
本当に初めて出会う兄弟・姉妹は、
やっぱり初めて出会っても信仰の友でもあった。
その実感・発見・気付きに、何とも言えない感謝だった。
それから、小さな小さなイタリアンカフェに入った。
そこには、子牛のように大きな真っ白な毛の犬がいた。
「もぅ」という名前だと、たった独りの彼女が教えてくれた。
私は、新潟から来たことと、次男が引っ越して来たことを告げた。
そして、たった独りのお客であった私は、
その40代後半だろうか、素敵なシェフである彼女と話した。
それは、「見えるものよりも、見えないものの方が大切だ」という、話だった。
「見えないものは存在する。しかし、見えるものはいつか消えてなくなってしまう」
何かのきっかけから、そんな話になった。
「それって、星の王子さまのお話しと同じですね」と、彼女は笑顔だった。
「そうですね。でも、本当だね」
たった今、私は見えないものへの確信を感じ、
見えないものへの深い深い感謝を感じて来たばかりだった。
「見えないものは、見えないからこそ、確かにここにある」んだな。
満員電車の中の孤独の話だった。
「昨日の夜、何年振りかで満員電車に乗ったら、心が辛かった」との話になった。
「私の旦那もそう言っています。だから、仕事でも車で回っていますよ」
「へぇ、旦那さんどこの人?」
「岩手の久慈です。彼も、満員電車に乗ると辛くなるって言っていますよ」
「何でだろうね。本当にあの電車の中での孤独は、不思議な辛さだな」
「そうですね。私も、そう感じてしまいます」
「人って、人ばっかりの中に居ると辛くなるんじゃないかな」
「そうかもしれませんね。私たち、実は、千葉の山と畑を買ったんですよ」
「へぇ、そこに住むの?」
「そうなんです。主人とこのもぅと一緒に住んで、山のレストランやるんです」
「へぇ、素敵だなぁ。オーガニックな野菜たちだね」
そんな話だった。
都会に長年住んでいても、やっぱり千葉の田舎に住みたいと思う。
それは、私も同じだった。
大学時代東京の上目黒で4年間暮らした。
とにかく早く新潟に帰りたかった。
東京は、どうもこうも私には合わない気がした。
心の居場所、故郷は、きっとここではないなぁと、感じた。
ぶから、いつも何だか孤独で、不安定で、寂しかった。
それは、この身体とこの魂が、そう私に言っていたのだと今でも思う。
そんな私の隣のテーブルの下で、子牛のようにでかいふさふさのぬいぐるみの、
あの「もぅ」がうつぶせになって、無心に眠っていた。
「もぅは、幸せだなぁ」
「そうですね」
「もぅのように生きられたら幸せだろうなぁ」
「そうですね・・・」
「東京の人にはなりたくないけど、私は、もぅにはなりたいなぁ」
そんな話をして、笑顔で店をあとにした。
そして、感じた。
私には、居心地の悪い場所も在り、居心地の善い場所もあると。
その違いとは何だと、あれからずっと考えていた。
貧しい教会の心貧しき信徒の人たち。
千葉の山での農家レストランを夢見るシェフと、羊を追うもぅという名の犬と。
私は、ほんの数時間の中で、それも、初めて訪れたこの街で、
その人たちと出会うことができた。
そして、この人たちとは、心穏やかに、何でも語れた。素直になれた。
都会で大勢の人の中に居ると辛く、孤独になる私。
なのに、この人たちと共に居ることを幸せに感ずる。
「心のゼロポイントですね」と、私は話した。
それは、神様であり、それは、空であり、風であり、雲であり、
花であり、草であり、葉っぱであり、虫であり、鳥であり、もぅである。
それは、豊かなる心の絶対のゼロポイント・よりどころである。
それを信じ、それを感じ、それを呼吸し、それを師とし、それを生きようとする人。
そうやってこの都会の片隅でも生きている人たちが居る。
「人を基準にして、人と比べ、人と競い、時には人の評価ばかりを気にしている人」
「その人たちには、きっと心のゼロポイントは存在しませんね」
それは、有心の人と無心の人の違いかな。
有心の人は、迷い・悩み・苦しみ・孤独で・辛さを感ずる。
無心の人は、まるでもぅのように自由で、素直で、あるがままに生きられる。
私は、やっぱりこの家が善いなぁと、改めて想った。
何故なら、ここに居れば、私は「心のゼロポイント」を感じられるから。
その「ゼロポイント」に戻られるからだ。
新潟への帰路だった。
車が大清水の長い長いトンネルを抜けて、突然県境の山の中に出た。
土樽からは新潟県だった。
途端に、全ての空気が一変した。
緑の国がここにあった。
山々が迫り、見上げると真っ青な越後の空だった。
「帰って来たぞ」だった。
私には、「心のゼロポイント」があることを、
今回の旅で、改めて発見できた。
人だけを見ている人には、そのゼロポイントは絶対に感じられないゼロポイントだ。
人を見ていると迷いが生まれ、欲が生まれ、自己嫌悪が生まれたりする。
でも、ゼロポイントには、それが無い。
この大きな楕円を描く川崎への旅によって、
私は、この出発点であるゼロポイントに再び戻れた喜びを感じた。
しかし、ここで感ずるゼロポイントは、
出発した時のそれではなく、
またより味わい深い深いゼロポイントになっていた。-
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