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from: クマドンさん
2018/07/03 10:52:21
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不思議がいいなぁ
「これがサッカーです」
本当にそうだなぁと、茫然として立ちすくんだ。
「まさか、ここで・・・」
いつもいつもあらゆることは例外である。
それは、それこそ、現実で、やり直すことも、結果を変えることも不可能だ。
全く予想すらしないこの過酷な結果に、
ただただなすすべもなく、立ち尽くす。
「それを受け止めるしかありません」
そうなんだな。
どんな現実であろうとも、その現実を受け止める。受け入れる。
その連続が、人生であるかも・・・・。
厳しい現実に対して、果敢に挑戦し、連動してよく闘った。
例え、個の力は劣っていても、
意志を明確に統一して、その全体の意志に任せて走る。受ける。蹴る。繋げる。
瞬時に選択と決断を迫られ、
考えると言う間もなく、ボールを動かして行く。
そうしたクレーバーでありながら、
無意識的な身体の動きが、一流選手たる人たちの動きなんだろうなぁ。
原口選手のシュート。
乾選手のシュート。
そこに決めるかの歓喜だった。雄叫びだった。
それでは、ベルギーに対して、後半2対0でリードすると言う展開を、
いったい誰が予想していたであろうか。
そのまさかの現実の中を、選手たちは果敢に闘った。
守りではなく、よくアグレッシブルに、ゴールに向かった。
そう行くしかないし、もうポーランド戦のような引きは考えられなかった。
日本のサッカーを、ここで在らせ示す。
本当の実力とは、自分たちの力を超えた処に存在する力だ。
彼等は、自分自身ですら信じられない領域に達し、
そうやって無心に無我夢中に闘っている自分を感じた。
その想いが、プレーと成り、私は、その姿に感動し、涙した。
本当の人生とは、自分を超えたところに存在している。
予想とは、覆されるものであり、
結果とは、考えもつかない、及びもつかないものである。
だから、人は、この過酷な人生を生きられるのではないだろうか。
想った通りに生きている人は、誰も居ない。
想像を超えて、想いもしなかった人生を生かされている人ばかりだ。
こうしたいと思ったことは起こらずに、
こうなりたくはないという現実が目の前にある。
私が、私として、ここで生きていることすら、
それは、私が自分で決めたことではない。
ただし、そうであってもゲームは続き、
ボールは回され、私は受けたボールを、繋げる為に決断をする。行動をする。
サッカーは90分間であっても、
私の人生は、そのゲームセットの笛を聴くまでは、終わらない闘いだ。
あのピッチで私が観ていることは、
それは私自身の人生の縮図でもあるかもしれない。
「あの時、こう動けば・・・」
「あの時、ここで守っていたら・・・」
「あの時、あのボールをミスしなかったら・・・・」
選手たちは、茫然として座り込み、ピッチを叩いて涙した。
それも、私だ。
どれだけ後悔をしながら、悔いを感じながら、生きて来たことか。
でも、「もしも」は、この人生には存在しない。
全ては、流れ、去って行く。
あのベルギーのゴールは、現実であり、
試合終了の笛は、とうに鳴ってしまっている。
例えば、どう生きたらよかったのだと、誰が言えるのだろうか。
時間を巻き戻してみたら、
日本中から酷評されたこの選手たちだった。
決勝Tへの進出を本気で信じていた人は、どれだけ居たのだろうか。
私も、敗退を予想した。
それは、世界レベルの個の技術とメンタルに対応できる選手が、
この全日本にどれだけいたのかを考えたら、
当然想定できることでもあった。
サッカー解説者ですらそうだった。
大胆に勝利を予想する解説者も中には居たが、
冷静に現状を分析したら、
この結果はけっして予想できなかったと思う。
人の言うこととは、その程度なんだな。
ベルギーに対して、2対0でリードしている全日本。
これ以上の想定外。例外はないのではないだろう。
しかし、そうなった。
世界中がその現実を目の当たりにした。
日本が勝利して、ベスト8に進出するかもしれない期待感。
つまり、思い通りにならないことも人生である。
まさかそんなことができるはずがないと言われることが起こるのも人生である。
だから、ベルギーに2対0でリードするのも、人生なんだな。
つまり、人生とは、誰にも先のことは分からないということ。
疲れ切って、痛む腰に湿布をはって、ここにこれを書いている私も、
このほんの先、何が起こるかは、全く予想の外なんだな。
しかし、いったい全体、「先」って何を差して言っているのか。
さっきよりは、確かに時間が流れて、先に来たのだろう。
でも、今、ここで、そして、その途中で「前」になり、
また、今、ここで、そして、「先」になるだろう今、ここ。
さっきの私ではなく、先の私ではなく。
この今、ここの私は、さっきの私であり、その私はもうどこにも居ない私だ。
それは、「不可逆」であり「不可決」である。
時間には始まりは無く、終わりも無い。
ただゲームには90分間が在り、私の人生にも笛から笛は存在する。
でも、それは、予想されるものでもなく、想定されるものでもない。
そこで起きる全てのことは、想定外で、例外でもある。
「まさか、こんなことが・・・」しか、そこには存在していない。
そんな刻・刻を繋げて、生きている。
まるで私は、ピッチを走り、飛び交うボールのようにして、
留まることなく、滞ることなく、止まることなく、ここに、生きる。
そう。
あらゆることは、不思議なんだ。
思議ではない。
不可思議。つまり、思議はできない。不可能をきっと私は生きている。
だから、香川選手の言葉なんだ。
「受け止めるしかない」
「受け入れるしかない」
「不可逆」であり「不可決」である、この人生。
どうにもならないを日々、生かされていることが現実なのだと私は想う。
それなのに、どうにかしようとする。
どうにかなったはずだと、考える。
でも、全ての推移は、予想を遙かに超えている。
「まさか」だけが、ここに在る。
だから、その不思議を生かされている私は、
その不思議の刻々とした変化や現れを、
「受け止める」だけ。
「受け入れる」だけ。
例え、それが過酷なる敗戦の現実であろうとも、
時には、死に至る病であろうとも、
私は、その目の当たりにした現実を、
不思議だとして、ただ「受け入れる」ことなんだ。
人生とは、不思議の連続。
人生には、不思議しか存在しない。
人生とは、その不思議を味わって生きること。
人が生きるとは、その不思議の意味を深く深く味わうことではないだろうか。
不思議は、時には喜びであり、感動である。
不思議は、時には悲しみであり、絶望でもある。
でも、そこから逃げない。
それを無かったことに勝手にしない。
それは、それ。
私だけでない。
みんなもそうなんだと、それを「受ける」「受け入れる」
不思議に気付く。不思議に至る。
そしたら、そこに居る。居続ける。何も考えない。ただ、そこに居る。生きるだけ。
ただ不思議を不思議のままに生きている。
すると、私が無くなり、みんなになれる。
不思議しかここにはないんだな。
ならば、不思議になればいい。
それを「受け入れ」それを「味わう」。
刻々を生きるとは、ただそれだけのことではないだろうか。
想った通りにはならない。
あらゆることは、想定外。例外なんだ。
その不思議さを、「不思議だなぁ」と認め、感じ、受け入れて息をしている。
不思議を息する。かな・・・・。
3時に起きて、対ベルギー戦を観た。
そして、香川選手の言葉で、はっと気付いた。
「これがサッカーだ」とは、
「これが人生なんだ」と。
そして、人生とは、思い通りにならないものであり、
いつもいつも想定外と例外の連続なのだと。
しかし、その不思議を不思議だなぁと深く感じて生きることこそ、
その笛と笛との間の人生を生きるということの意味ではないかと、
やっと私は、そこにたどり着けたように、今は感じている。
不思議でいいんだ。
不思議がいいんだ。
そうやって、これからは息したいなぁと、この試合は教えてくれた。-
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