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from: クマドンさん
2018/09/11 12:04:46
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石割桜と原敬記念館
石割桜を見た。
これがあの石割桜か。
5~6mもあるだろうか、
大きな岩を割って桜が立っている。
「盛岡の桜は、石を割って立っている」とは、誰の言葉だったか。
とにかく、現地でその実物を見ることだ。
感動は、その瞬間だけに与えられる。
城址公園の向かいの角に、
実はひっそりと賢治の井戸が在る。
それは、盛岡中学校に賢治が通っていた時に、
下宿した場所にあった井戸だと言う。
こんこんと今でも水が湧いている。
こんな小さな湧水に「賢治の井戸」と名前をつける。
それだけ、盛岡の人たちは、賢治さんが大事な大事な存在なんだな。
ここでも、子どもたちに賢治さんの話が出来る。
盛岡の教師は、幸せな教師だと感じた。
歩き果て。疲れ果て、精魂尽き果てた頃だった。
車でやっとたどり着いたのが「原敬記念館」だった。
そして、入り口正面に特設展示として「盛岡の戊辰戦争」の展示があった。
私は、ここで独りの家老と出会った。
楢山佐渡だ。
秋田戦争を指揮して、破れた武士であるが、信念・気概・叡智・肝っ玉。
全てに優れた武将だったと私は知った。
秋田戦争の刻々とした動きを絵巻で当時の人たちが表現していた。
それを一つ一つ見ながら、どこでどんな戦が行われたのかをメモした。
すっかり私は時間のたつのを忘れて、
秋田戦争についての記述に夢中になっていた。
そして、分かった。
南部藩は、天皇に対して鉄砲を撃ったのではないということが。
南部藩は、東北の民百姓たちの平和を守りたかったことが。
楢山から秋田藩に送られた手紙があった。
「なぜ、秋田藩は新政府軍について、この地域の人たちの暮らしを乱すのか」
「私たちは、同じ勤王として働くことを誓ったはずだ」
「だから、その本心に気付き、再びお互いに手を取り合って新政府軍を迎え討とう」
南部藩は、つまり、勤王の藩だった。
なのに、どうして、こうして官軍と言い張っている新政府軍の攻撃を受けるのか。
ものの道理にこの戦はかなっていない。
長州・薩摩の私怨によるこの狂気の戦は、
本来真実も正義もないただの凶行なんだ。
東北諸藩は、その気持ちで「奥羽列藩同盟」を結んだ。
それは、荘内藩と会津藩を助けたい一心の嘆願書だった。
なのに、その嘆願書を盾にして、新政府軍に逆らう藩たちと判断し、
賊軍の汚名を着せて、勝手に北に攻めて来た。
そして、略奪し、町を焼き、田畑を荒した。
極悪非道は、どちらなのか。
その義憤によって、東北の諸藩は立ち上がった。
それが、事実なんだと、私は、分かった。
この戊辰戦争を、東北の諸藩の立場から見直す。
それが、原敬が言った「政見の異同」だった。
同じ勤王であった新政府軍と東北諸藩がどうして戦をしなければならなかったのか。
どうして我々が逆賊の汚名を着たまま、こうして生きねばならぬのか。
その怒りが、原敬を政界に立たせたと感じた。
「焚く香の 煙のみたれ 秋の風」 一山三文-
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