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from: クマドンさん
2018/12/29 10:31:00
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ヨガで繋がった
三日連続の飲みだった。
昨日の昼の番組で「急性すい炎」についてを観た。
「酒」だった。
私は、酒を飲み続けている内は、
肝臓と膵臓へのリスクはなくならないとの医師の話。
体質もあるとのことだが、身体のことは、
私の意志ではどうにもならないことと、何だか怖くもなってしまった。
しかし、飲んで、語りたいことを語る。
職場の後輩からのオファーだった。
私は、仕事について伝えたいことを語った。
それは、私が長年の経験から得た、大事な心構えだった。
それは、私とっては当たり前のこととして、
いつもいつも行っていることだった。
それを、こうなんだと言葉で顕すと、
それは、一つの方向や目的となっていく。
私は、そうやってきたことで、
私は、私なりに歓びを感じ、達成感を感じている。
しかし、そのことを言葉で顕す機会は、そんなにはなかった。
同じ場所で働いている支援員さんには、よくその意味を伝える。
あの時こうしたのには、こんな意味があるんです。
これからこういう方向で行くのには、こんな期待があるからです。
私が行っていることを言葉に表すことで、
その行動に意味と目的とが明らかになる。
すると、そのことは、人に伝えられるものとなる。
そうだったんだ。
私は、よくよく先輩たちからそんな大事な言葉を伝授された。
すごいなぁ。どうしてあんなに仕事ができるのだろう。
そう思って尊敬していた先輩たちには、
やっぱりこの長年の経験で明らかになった極意が必ず存在していた。
その言葉は、同じ仕事でなかなか思い通りの結果を出せず、
日々悩んでいた私には、救いの言葉となった。
それは、一筋の光明でもあった。
しかし、その言葉を、自分もものとして実践するまでには、
何度も何度も失敗し、それでも根気強く続く、諦めない気持ちが必要だった。
言葉を、自分のものとして、自分のエネルギーとして生きる。
先輩は、言葉を伝えたのではなく、
そうした気付きを通して、私にやる気と根気と忍耐のエネルギーを、
そうやって伝授してくれたのだと、今は、思う。
それを、私が、やる歳になったのではないのか。
本当に細やかな経験知だが、
そのことは、同じ仕事を目指す彼には、伝えておいていいのではないか。
ふと、そんなことを想ったので、この飲み会を実行した。
考えてみたら、どんな理論でもなく、どんな方法論でもない。
本当のこととは、とてもシンプルで、当たり前で、簡単なことだ。
しかし、日々の多忙感と、無力感と、疲労感の中では、
ついつい見過ごされて、忘れられていることでもあった。
きっとみんなはここから始めた仕事の原点だったのに、
そのシンプルな原点が、いつの間にか見えなく、感じられなくなっている。
その当たり前のことを、私は、彼に語った。
彼は、はっとして、深く肯き、時にはうーんと考えながら、
私の話を聴いてくれた。
そこには、私と彼との区別はなかった。
一つの想いを二人で共有しながら、一致した。
同じことを想い、深く感じて、そうなんだと改めて確認した。
実は、そのシンプルな原点は、みんなのものであり、
私だけのものでは決してないものなんだ。
そのことを体験を通して掴んだ人は、
そのことを言葉に表せる人でもあった。
そして、その言葉とは、聴く人その人の中にも存在することだから、
その言葉は、その人の魂の中で覚醒して、その人を動かすエネルギーとなる。
本当の言葉とは、こうして伝えられた人のエネルギーとなる言葉だ。
そして、その言葉とは、どこにでも存在している言葉でもある。
そして、その言葉のエネルギーで創られていないものは一つも存在していない。
自然で在るものは、全て、その言葉のエネルギーで生成されている。
私がそうだし、彼もそうだ。
この大風に揺れる百日紅も、餌場で餌を無心でついばむ雀たちも、
みんなみんなその元なるエネルギーで動かされ、生かされている。
だから、そのエネルギーを感じられる人や鳥や動物や草や花や樹木等は、
自ずから然り、そうなる働きに促されて生かされている存在そのものだ。
それをヨガでは、気=プラーナと言うらしい。
実は、私たちは、呼吸して外界と繋がるばかりでなく、
そのエネルギーの循環・出入りの中で、生かされている存在でもあるんだ。
全く同じ一つの気から創られた、
私たちは、みな同じ母から生まれた、同じ兄弟・姉妹でもあるとのことだな。
「自然と自己との一如」
「山河大地、日月星辰、これ心なり」 道元
どうして、私の言葉を彼が分かるのか。
それは、私と彼とが同じ自然・いのちから分かたれて生まれた存在同志だからだ。
そこには、自他の区別はない。
身体と云う個体はそれぞれ違った姿・形であろうとも、
ここにある魂は、自然から分かたれた魂=自分として、
一つが同じそのものなんだな。
そのシンプルで、単純で、ごくごく当たり前のこと。
しかし、そのことを自分でちゃんと持っていながら、
そのものの存在すら見失い、忘れ去っていること。
しかし、そのことは、大いなる師に出会ったり、試練の中で自分を見失ったり、
大病をして生き死にの境を彷徨ったり、どでかい自然の景色にであったり、
そんな天意に恵まれた時、はっと出会い、気付くこと。
気付くとは、その言葉そのものが吾であったとはっとすること。
それは、向こうにあって観るものではなく、
ここにあって感ずること。そのものが、私であること。
ヨガではこれを、本来の自分=真我=プルシャと呼ぶそうだ。
つまり、シンブルで単純でとてもとても当たり前のこの言葉は、
真我の言葉なんだ。
真我が語り言葉は、その言葉を聴く、彼の真我に届く言葉だ。
そして、その言葉こそ、彼の真我の言葉でもある。
何も違わない、まったく同じ、同一な言葉を、
彼は我しらず有していたということだ。
感動で、我知らず涙を溢れる。
その真我の存在を信ずれば、その涙の意味も明らかになる。
私の真我が、その真我から発せられる波動・エネルギー・音・動きに感ずる。
それは、私の中での真我の目覚め、気付き、喜び、共感。
感動の涙は、私の真我の涙だった。
このままでいい。きっと、このままがいいんだ。
だから、そのままの言葉を、そのまま、彼には伝えた。
彼は、その言葉を確かに味わっていた。
いの意を味わうことで、
その言葉は、彼の存在にとっての大事な「意味」となる。
人は、意味で生かされる。
意味があるから、今、ここで生きている。
何だかね。
様々な個別であり、多様であり、あれもこれもであったものが、
自然に緩やかに繋がって行く感じがする。
繋がるとしいことは、一つの意味となることだ。
多ではなく、個々としての全体の一つの顕れなんだ。
正に、自ずからの働きから分かたれ、個として生まれた私=「自分」なんだ。
みんな自ずからの子どもなんだ。
自ずからから生まれないものは一つもここには存在していない。
みんな自ずからで生かされている。
私は、あの雲と同じ、自ずからなる存在だ。
自然であればいい。
だって、私は自然なんだから。かな。
主客同一=一如 これを悟りとヨガでは言うらしい。
ヨガの最後はシャバサナだった。自らを死体にする。
そして、自然の命に回帰する。土になる。無になる。
すると、本来の自分だけがここに遺される。
不思議だなぁ。
ヨガで、やっと気付いた。
繋がった。-
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