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from: クマドンさん
2019/09/13 05:33:51
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味わう
「味わう」とは、どういうことだろう。
実は、最近は「味わう」ことに集中している。
まさに、「味わう」ことの感動を「味わって」いる。
そして、そうした状況に自らを運ぶ。
それができる場所に行く。
そのことを心掛けての生活だった。
東区総合スポーツセンターだった。
ここで運命的に新採用の元同僚と出会った。
再会を「味わった」。
「あっ」「おう、元気か」と、ただそれだけ。
彼はトレーニングジムに、私はランニングコースだった。
走る。
それは呼吸だ。それは太腿・膝・ふくらはぎ・足首・土ふまず。
身体の今、ここを、意識して、丹念に集中して、ペースを決める。
それは、やっぱり身体との微細な対話。
意識である自分が、身体としての自分をチェックする。
「このスピードではどうだろうか」
「最初の5周は我慢我慢」
「一周を1分40秒ペースで走る」
「辛いなぁ。息が切れる。スピードダウンだ」
これが、身体との対話。
途中、太腿の裏に違和感を感ずる。
また、ピキっが起きそうな気配だ。
そうなったら、直ぐにペースを落とし、歩く。歩く。
私が走りながらいつも気にして向き合っているのは、
この私の足だった。足の刻々と変わる状況に反応する。
その変化に気付く。その調子を感じ続ける。
気付く・感ずる・判断し・反応する。その連続、繰り返し。
「走る」を味わうとは、このことだった。
そして、目標達成3キロを走り、クールダウン。
この達成感は、大きかった。
次に、拉麺を味わうだ。
北区の名店「東光」に行った。
7時だったが、カウンターに座れたので助かった。
久々の「辛し味噌拉麺」だった。
ひと口、スープを味わうと、あの味が思い出された。
「味」は、身体が覚えているものだ。
それも、身体が好きな味がある。
そうでない拉麺を食べてしまった時の哀しさは、
言うに言われぬ口惜しさでもある。
スープはそれなりに辛さだった。
そこに、真っ赤な辛子味噌を足す。そこに、摩り下ろしたニンニクを足す。
ふると、味に深みが増してくる。
このプロセスを私は楽しむ。
足すことで変化する。なお少しだけ深くなる。
すると、私の深くで「旨い」との喜びを感ずる。
ゆっくりと、ひと口ひと口その味を堪能する。
味は、舌で感ずるものではない。
感覚は確かに舌であろうが、「旨い」はもっと違う場所で感ずるものだ。
「感動」する場所が、きっと「旨い」と感ずる場所である。
それでは、その場所とはどこにあるのか。
そんなこと説明はできないが、それは在る。
その在るものの喜び・感動のために、私は「旨い」拉麺を追い求める。
北区文化会館で合唱の稽古だった。
3回の稽古を休んでしまった。
それは、遠いからだ。午後7時半から始まるからだ。疲れ切っているからだ。
だから、初見の楽譜に、音とりは、後ろのバスの大先輩だ。
私は、楽譜が読めない。分かるのは音の高低。
音そのものは、耳で聴いて覚える。それしかできない私だった。
しかし、集中して音を聴き、自分も音を出している時、
不思議な一体感を感じられる。
いつしか、私は、音に人になり、4つのパートが和して融け合い、
その融け合った分子の1つと化していたりする。
自分であって、自分では無い、全部の中の自分になる。
その「調和」と「ハーモニー」を、
きっと私は味わうために「合唱」をしているのだと思えるようになった。
突出して大音量で歌ったのは、すでに過去の話だ。
今は、みんなの中の私で、その歌声を「味わって」いる。
音も、味わえるんだな。
身体を味わう。
味を味わう。
音を味わう。
昨日は、私服のアフター5だった。
帰宅が午後10時に近かった。
それから、コンサートのポスター印刷だった。
ところが、プリンターが不調で、難儀して、
12枚刷るのに40分もかかってしまった。
最後に、苦労を味わって、爆睡だった。-
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