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from: クマドンさん
2019/09/25 05:42:20
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土の中の彼岸花
さてさて、寒くなったものだ。
いつでも短パン半袖Tシャツの私にも、夕方からの寒さは応える。
季節はやっぱり変わっているなぁ。
ところが、我が家のプランタに植えられたあの彼岸花が、
今年は、お彼岸になってもまだちっちゃな芽のままだった。
どうしたことか。
いつもの年には、本当にお彼岸の日に満開となるはずなのに。
今年は、その時期を逸してもまだ背丈も伸びない。
こんなこともあるも、自然のありようかな。
何だか、深く深くで沈んだままのような気がする。
深く深くは、他者としての大人とのかかわりが少ない場所だ。
面倒な説明や、解説が必要な立場には、
極力ならないように気をつけている。
人を嫌っているわけではなく。
人を自分から裂けているのではないが、
何となく「そうかなぁ」と思う話には付き合えないような気がするだけだ。
話したいことは、「生きるの意味」かな。
そのことをごくごく自然に、「そうだなぁ」「そうですよね」と、語り合える。
それなら、話したいなぁと、私は思う。
ところが、他愛ない、当てもない、確かに「そうなんだ」けど、
でも、そこではないなという話には、
何だか付き合えないような気がしている。
偏屈な親父になってしまったものだと、自分でも笑えるが、
どうでもいいような話をするくらいなら、
独りで居た方が幸せだと、今は、感じている。
だから、行かねばならない義務の会からは、脱退をさせてもらった。
それでも、名簿には名前が載せられてある。
年間会費500円なら、まぁいいかと、500円だけは払っている。
その会の定期的な飲み会には一切参加しない。
かっては、その会で会うことを楽しみにしていたKさんは、
今は、とっくに鬼籍の人になっている。
「会いたい人」が居なければ、わざわざ高いお金を払って参加することはない。
そうした「忖度しない自由」を、私は得ることができた。
「ああ、そう思うんだな」「そうだよな。仕方ないよな」と、思うことがある。
人はみんな違っているようでありながら、
どこかで同じような既成の考えや、世間的な生き方に、
いつのまにか縛られ、それだけを信じて生きているようなところがあるようだ。
「きっとみんなもそう感じるだろう」
「こう考えるのは私だけでない」
その「みんな」の1人である「みんな」が語る。
そこには、深く深く共感したり、あっという発見があったり、
そうかそうだったんだという、気付きを感ずることは少なかった。
それは、本当の自分を語っていないからだと、
最近は感じている。
人とは、人になるためにこの世に生まれて来たと私は思う。
人として在るから、それでいいと思うような人ではなく、
本当の自分の生き方とは何かという「問い」を持ち続け、
問い続け、体験や経験を通して学び、その学んだコトバを実践的に生きる。
何だかそのことが、人として生きることの意味なんだと、
今は、思っている。
生きるのは、私、独りだ。
その独りである私が、今、ここで、どう生きているのか。
善く生きているのか。
真実を生きているのか。
美しく生きているのか。
深く深く独りで生きるとは、
そのことを問いつつ、そうやって生きることを目指し、
そうした目には見えないがここに在るものの顕れとして、
今、ここに、生きる。
それは、意識しないでもいいし、
昔のお年寄りの中には、
自然にそうやって生活していた人たちも多くいた。
何だか自分でも語りながら、明確でなくもどかしいのだが、
そうやって生きている人が、1人でも多くなることが、
みんなの幸せのために少しだけでも役にたつのではないのか、
そんな話なんだ。
歳をとればとるほど、
「俺が、俺が」の人が多くなる。
自分のやってきたことを誇りに思い、自慢する。
そして、人のことを低く見下し、馬鹿にする。批判する。中傷する。
みんな自分が一番かわいく、愛おしいことはよく分かる。
でも、70年、80年、人として生かされて来た結果がそれで、
本当にそれでいいのだろうかの「問い」でもあった。
私は、だんだん黙るようになった。
私は、だんだんいろいろなものから離れるようになった。
退職してから1年半だ。
今は、自分が気持ちよい人とだけ会うようになった。
義務や義理やしがらみで、会わねばならないことから足を洗った。
そのことで、また「あいつは・・・」と言われていることもよく感ずる。
何だか、そうである人の中に居るより。
内なる自分自身と向かい合い、
こうして対話することの方を優先し、それを幸せと感ずるようになった。
私は、私。他人は、他人なんだ。
ところが、こうした独りの生活の時間を増やせば増やすほど、
聖書の御言葉が、リアルに感じられるようになってきた。
奇跡は、ある。
それは、私のことを振り返ると、そのことは真実であると、ただ思う。
私を通して、そのことはリアルと感ずる。
それは、信じようとすることでもなく、「アーメン」と言うだけ。
そのことのある無しを説明したり、証明したりすることもない。
「在る」のだから、ただそれだけでいい。
賢治さんの世界もそうだ。
その世界を異界とと言う人がいる。
でも、ここが異界なんだと、私は思う。
私は二人の童子のことをリアルに感じた。
ああ、かく生きたいものだと、心で願った。
しかし、周りの人たちは、分かったような言葉で、二人のことすら語らない。
語るのは、自分のことだけ。
まとまりのない話になったが、今は、きっと私は、ここに居るのだと感じている。
あの彼岸花が、今年は深く深く土の中で沈潜しているように。-
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